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終戦の日にAIを思う

「当然」とされる判断の中に、誰の命があるのか

戦争の記憶を受け継ぐとは、過去の答えを暗記することではない。現在の選択を問い続ける力を受け継ぐことなのだと思う。

今日は、靖国神社と千鳥ケ淵を歩いた。帰り道に読んだ、ある海外の記事の中に、AIについての一つの指摘があった。戦争の記憶と、AIの倫理。無関係に見える二つの話は、実は同じ一つの問いにつながっていた。——「当然」とされる判断の中に、誰の命があるのか。

二十四節気では立秋。七十二候では「寒蝉鳴(ひぐらしなく)」の頃にあたる。秋の入口を示す暦の節気で、蝉の声が変わり始めるとされる時期だ。

今日は、その蝉が鳴いていなかった。

暦はすでに秋の入口を告げている。空気はまだ夏の中にあり、蒸し暑さが身体にまとわりつくような一日だった。朝早くから靖国神社へ向かった。境内には、すでに多くの人がいた。高齢の人だけではない。若い人も、親子連れも、一人で歩く人もいた。老若男女、さまざまだった。

私は毎年、八月十五日に靖国神社へ行く。行くか、行かないかを、その年ごとに判断したことはない。自分にとっては、以前から続いてきた毎年の行動である。

補足しておきたい。靖国神社は、先の大戦などで亡くなった軍人・軍属らを祀る神社である。この中には、戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)で「平和に対する罪」に問われ有罪となった、いわゆるA級戦犯十四柱も含まれる。このうち七名は絞首刑に処され、五名は服役中に、二名は判決が出る前に亡くなった。この十四柱の合祀は一九七八年に非公開で行われ、翌年の報道によって公になった。合祀そのものはしばらく外交問題にならなかったが、一九八五年、時の首相による公式参拝をきっかけに中国が初めて公式に抗議し、以後、中国・韓国は首相や閣僚の参拝のたびに反発を示してきた。この記事は、その是非そのものを論じるものではない。ただ、その事実に触れずに参拝について書くことは、色々な思いのある方に対して誠実ではないと思うので、先に記しておく。

参拝することだけが、国を思う気持ちの表現だとは考えていない。参拝しない人にも、それぞれの考えがある。今の国に変わってほしいと願う人も、その国を嫌っているからではなく、大切に思うからこそ声を上げているのかもしれない。国を愛する気持ちに、一つの決まった形はない。

その蒸し暑い朝、自分の足でここへ来て、静かに手を合わせている人がこれほどいる。その姿もまた、国を思う気持ちの一つなのだと私は思った。

私にとって最も身近な終戦の日

八月十五日は、日本が戦争を終えることを国民に告げた日である。降伏文書への調印は九月二日であり、世界では「VJデー」を別の日付で捉える国もある。勝った側にとっては勝利の日になり、負けた側にとっては敗戦の日になる。同じ戦争の終わりを見ていても、立つ場所によって言葉も感情も異なる。

私にとって八月十五日は、勝利や敗北を言い争う日ではない。日本が太平洋戦争をやめたことを、正式に国民へ告げた日であり、自分の暮らしに最も近い終戦の日である。

戦争を語るとき、「戦前の教育はすべて間違っていた」「あの時代の人は何も考えていなかった」と、現在の価値観から簡単に結論づけることにはためらいがある。当時の資料がすべて残っているわけではない。一人ひとりが何を聞かされ、何を信じ、何を恐れ、何を選べなかったのかを、今の私たちが完全に知ることもできない。

私が小学生の頃、特攻隊の生き残りという先生が担任だった。まず、怖かった。間違いを許さない先生だった。よい意味でも、悪い意味でも、生きることを教えられたと思う。幼い子どもに、その厳しさを反面教師として受け止める力があったかは分からない。

あの先生が、よい先生だったのか、悪い先生だったのか。今も判断できない。ただ、この年齢になると、先生が抱えていた切なさのようなものを、少しだけ想像するようになった。戦争が終わって教壇に立っても、その人の中で何かが終わっていなかったのかもしれない。

父の中で終わらなかった戦争

父は、亡くなる年の正月に、満州での体験を話してくれた。

満州自動車の工員をしていた父は、当時日本の勢力下にあった満州(現在の中国東北部)で、終戦時のソ連軍侵攻に遭遇した。日ソ中立条約を破る形での侵攻だった。父が慕っていた先輩の奥さんが連れて行かれそうになり、先輩が抵抗した。

父は、「パンと一発撃たれて、それで終わった」と話した。

車を扱えた父は、その後、中国軍の部隊とともに移動した。共産党軍に押され、このまま台湾まで一緒に行くことになるかもしれないというところで、隊長から「今ここで帰らなければ、日本へ帰れなくなる」と言われ、帰国したという。

父は、外国籍であることを理由に仕事を断る人ではなかった。仕事を求めてきた人には、国籍にかかわらず仕事を出していた。ところが、ロシアの人だけは採用しなかった。今のロシア人が悪いわけではないと分かっていながら、許すことができない。仕事を求めてきた人には金を渡し、ほかで探してほしいと帰していたという。

その行為を正しかったと肯定することはできない。現在を生きる人に、過去の国家が行ったことの責任を負わせてよいとも思わない。一方で、父の中に残った傷を、理屈だけで消すこともできない。

戦争は、終戦の放送を聞けば終わるものではない。目の前で人を失った記憶は、その後の人生の判断、人間関係、仕事の与え方にまで入り込む。父は、戦争から帰ってきた。父の中にある戦争の一部は、最後まで帰ってこなかったのだと思う。

世界中に、同じような人がいたのではないか。

解消しない怒り。解消しない後悔。勝利の後ろにある犠牲とむなしさ。敗北の後に残る反省と屈辱。どれも、歴史書の中にいる有名な人物だけの感情ではない。その時代を生きた、名もなき人々の思いである。

勝っても負けても、血を流すのは市井の人々

「勝てば官軍、敗軍の将は兵を語らず」という言葉がある。勝った者が正義とされ、敗れた将には発言権さえ残されない、という意味だ。私は軍人ではない。ただ、その言葉の中にある、語ることのできなさのようなものは少し分かる気がする。

勝った側にも死者がいる。負けた側にも死者がいる。どちらにも家族がいる。戦争を始める合理性が本当にあったのか。国民の多くは、「自分はあなたに、人を殺し、人に殺される判断まで任せた覚えはない」と思っていたのではないか。市井の人々は、そうした思いとは関係なく巻き込まれる。

巻き込む側は、後になって「この道しかなかった」と説明する。

勝ち負けを決めることだけが目的なら、じゃんけんで決めればよいとさえ思う。あまりに幼稚な言い方に聞こえるかもしれない。少なくとも、じゃんけんなら血は流れない。家族を失う人も、八十年以上たって異国の土を掘り、遺骨を捜し続ける人も生まれない。

戦争には終戦日があっても、遺骨には終戦日がない

靖国神社のあと、千鳥ケ淵戦没者墓苑にも足を運んだ。

千鳥ケ淵は、軍人だけを祀る場所ではない。海外で亡くなった軍人、軍属、一般の日本人のうち、遺族へ返すことのできない遺骨を納める「無名戦没者の墓」である。現在、約三十七万柱が納められている。

厚生労働省の資料によれば、海外戦没者は約二百四十万人。そのうち収容された遺骨は約百二十八万柱であり、今なお約百十二万柱が未収容とされる。約三十万柱は海に沈んだまま、約二十三万柱は相手国や地域の事情により収容が難しい。残る最大約五十九万柱を中心に、今も現地調査と遺骨収集が続いている。

終戦から八十一年を迎えても、半数近くが遺骨として故郷へ帰っていない。

遺骨収集を続けているのは日本だけではなかった。アメリカには、過去の戦争で行方不明となった軍人を捜し、遺骨を収容し、DNAなどによって一人ずつ身元を確定する専門機関がある。第二次世界大戦以降、今も八万一千人を超える人が行方不明とされている。

イギリスは、日本とは考え方が異なる。第一次、第二次世界大戦の死者は、原則として本国へ戻さず、亡くなった国で仲間とともに葬る。新たな遺骨が見つかれば、軍の専門部署が記録や遺品、家系、DNAを調べ、可能な限り名前を取り戻す。

ドイツでは、連邦政府から委託を受けた団体が、国外に残る戦没者を捜索し、収容し、現地の集合墓地へ改葬している。四十五か国、約八百四十か所の墓地で、約二百八十万人が眠る。

祖国へ遺骨を帰す国がある。亡くなった土地で墓を守る国がある。方法は異なる。共通しているのは、死者を行方不明のままにしないという意思である。

こうして各国の取り組みを並べると、戦争の愚かさが一層はっきりする。国と国が人を殺し合わせ、何十年もたってから、かつて敵だった国と協議し、土を掘り、DNAを調べ、ようやく一人の名前を家族へ返す。戦争をしなければ、すべて必要のなかった仕事である。

国には終戦の日がある。遺骨収集には、まだ終戦の日が来ていない。

人数を集めることと、記憶を渡すことは違う

私は仕事で何年か、地域の戦没者慰霊祭に携わった。毎年、何人かの政治家が参列していた。遺族の年齢は高くなり、八月十五日に靖国神社へ向かう人の数も、年を追うごとに減っていった。戦没者の孫の世代が、すでに私と同じくらいの年齢になっている。自然な流れだとも思う。

市が開催する慰霊祭も、参列者が少なくなってきた。

ある議員は、平和教育のため、市内の小中学生を慰霊祭へ呼ぶべきだと声高に説明した。反対する議員もいた。その議員がなぜ子どもを呼ぼうと考えたのか、本当の趣旨を最後まで聞くことはできなかった。世代継承への危機感から出た提案だったのかもしれない。

私が気になったのは、人数を集めるために子どもを呼ぶ話になっていないかということだった。

子どもを席に座らせるだけでは、平和教育にはならない。なぜ慰霊祭が開催されているのか。この地域から何人が戦地へ向かい、どのような家族を残したのか。兵隊だけでなく、空襲、疎開、飢え、引き揚げの中で亡くなった人はいなかったのか。なぜ戦争は始まり、なぜ止められなかったのか。式の前にそこから伝えなければ、黙祷も献花も、意味の分からない儀礼になってしまう。

式のあとには、子ども自身が考える時間も必要になる。大人が用意した結論を覚えさせるのではない。疑問も、違和感も、異なる考えも口にできること。それがなければ、記憶を継承したことにはならない。

参列者が減っているということは、単に席が空いているということではない。肉声で戦争の記憶を受け取れる時間が、残り少なくなっているということである。

国を愛する気持ちは、一つではない

政治家が慰霊祭に参列すること自体は、不自然ではないと思う。国家や自治体の判断によって戦地へ送られた人、国が守りきれなかった市民を、公の立場にある人が追悼する。そこには、行政と政治が引き受けるべき責任がある。

ただ、死者は反論できない。だから、慰霊の場を特定の政治的主張の舞台として使うことには慎重でなければならない。死者の前では、政治家も行政も、まず自らを低くする必要がある。

国を愛するという言葉も、誰か一人が意味を決めるものではない。

靖国神社へ参拝する人がいる。参拝しない人がいる。戦争を二度と起こさないよう、政府の判断を厳しく問う人がいる。地域の記録を残す人がいる。災害時に隣人を助ける人がいる。弱い立場の人を置き去りにしない国に変えようとする人がいる。

どれも、国や社会を大切にしたいという気持ちの表れになり得る。

私は、そうした気持ちは国防にもつながると思っている。守りたいと思える国でなければ、人は心から守ろうとはしない。ただし、順序を取り違えてはいけない。

国を守るために国民が存在するのではない。国民の命、自由、暮らしを守るために国が存在する。

国が人を大切にし、歴史を隠さず、異論を認め、困った人を見捨てない。その積み重ねによって初めて、「この国を守りたい」という気持ちは育つ。命令して身につけさせるものではない。

裁くという行為も、対称ではなかった

冒頭で触れたA級戦犯について、もう少し書いておきたい。彼らが問われた「平和に対する罪」は、実はこの裁判のために新しく作られた罪状だった。侵略戦争を計画し、開始したことそのものを罪に問う——この考え方が国際法上初めて明文化されたのは、裁判のわずか前、一九四五年のことである。行為が行われた時点では、まだ存在しなかった法で裁く。判事の一人だったインドのラダビノード・パールは、この点を罪刑法定主義(法律なければ罪なし)に反するとして、被告人全員の無罪を主張する反対意見を書いている。

もう一つ、法廷で実際に問われながら、退けられた論点がある。被告側の弁護人は、戦争の遂行そのものを罪に問うなら、広島・長崎への原爆投下も同じ理屈で裁かれるべきではないかと主張した。裁判長は、理由を示さないまま、この裁判所には管轄権があるとだけ述べてこれを退けた。そもそもこの法廷は、連合国が、連合国の指定する相手だけを裁くために設けたものだった。連合国側の行為を審理する法廷は、当時も、その後も、一度も作られていない。

広島と長崎は、今日に至るまで、どの国のどの法廷でも裁かれていない。唯一、一九六三年に日本の裁判所が、原爆投下は当時の国際法に違反していたと認定したことがある。ただし同じ判決は、被爆者への賠償請求を退けてもいる。国際法上の権利を持つのは国家だけであり、個人にはない。日本の裁判所にアメリカを裁く権限もない。判決文は「政治の貧困を嘆かざるを得ない」という一文を残した。違法性は認めながら、それを救う法的な手段がない、という結末だった。

私は、東京裁判が正しかったか間違っていたかを、ここで判定するつもりはない。ただ、「裁く」という行為が、常に両側に同じ重さでのしかかるとは限らないという事実は、記録しておきたい。勝った側の市井の人々も、負けた側の市井の人々も、同じように空襲や原爆で命を落とした。そのうち、法廷に立たされたのは、負けた側の指導者だけだった。

同じAIでも、医療と警察では意味が変わる

今日、世界の記事を読んでいたとき、AIの使い方について気になる指摘があった。

同じ音声認識AIであっても、医療で使う場合と警察で使う場合とでは、その意味が異なるという。医療現場では、診察中の会話を記録し、要約することで医師の負担を減らせる。一方、認識に誤りがあれば、診療記録や治療に影響する。そのため、医師が確認して修正することや、患者が記録を確認できることが重要になる。

同じ技術を警察官のボディカメラで使えば、状況は変わる。記録をAIが誤って解釈したとき、その人は疑いをかけられる側に立つかもしれない。医療機関と患者の間にも力の差はある。警察と捜査対象者の間には、行動を制限し、身柄を拘束し得る国家権力がある。

同じ技術、同じ精度であっても、利用される場所、目的、権力関係、異議を申し立てる方法、利用を拒否できるかどうかによって、倫理的な意味は変わる。

言われてみれば当然のように思える。医師と警察官では職責も職務も違う。守ろうとするもの、優先しなければならないものも違う。

ところが、その「当然」はAIに最初から備わっているわけではない。AIには医師の職業倫理も、警察官の権限と限界も、自動的には入っていない。何を目的とし、何を制約とし、どのような場合に人間へ判断を戻すのかを、誰かが決めなければならない。

医療AIの誤りは、治療の機会を失わせることがある。警察AIの誤りは、罪のない人を容疑者にすることがある。軍事AIの誤りは、人を敵と判定し、攻撃につながるかもしれない。

さらに、AIが正しく計算していたとしても、与えられた目的自体が正しいとは限らない。

犯罪を減らす。国を守る。被害を最小にする。どれも、言葉だけを見れば当然に聞こえる。その目的のために誰の自由を制限するのか。誰を危険にさらすのか。誰が誤りの負担を引き受けるのか。そこを問わなければ、善意と合理性が人を傷つける。

個別の合理性が、全体の愚かさになる

医療には医療の合理性がある。警察には警察の合理性がある。どちらか一方が常に正しく、もう一方が常に間違っているわけではない。

本人の自己決定を尊重した結果、医療上の危険が高まることがある。犯罪を防ぐために情報を利用すれば、プライバシーや自由が損なわれることがある。一つひとつの組織が、それぞれの職責に忠実に判断した結果、社会全体では価値が衝突する。

安全と自由。個人と公共。生命と自己決定。現在の利益と将来の危険。全部を同時に最大化することはできない。判断とは、対立する価値の間で、誰かが責任を引き受けて選ぶことなのだと思う。

戦争も、突き詰めれば同じ構造を持っているのではないか。

国家には国家の合理性がある。軍には軍の合理性がある。外交には外交の合理性がある。各国が自国の安全保障と利益について合理的に動いた結果、その合理性同士が衝突し、全体として極めて非合理な破壊に至ることがある。

その計算の中に、市井の人々の暮らしや意思は、本当に入っているのだろうか。

政治学上、市民は選挙によって代表者を選び、政治を託す。選挙で選ばれたことと、その後の一つひとつの判断に市井の人々の感覚が入り続けることは同じではない。安全保障のように、専門性が高く、機密が多く、判断の速度を求められる分野ほど、その距離は広がる。

国民は、仕事をし、家族と暮らし、子どもを育て、親を介護している。「国益」や「安全保障」という抽象的な言葉ではなく、今日の暮らしを生きている。その具体的な生活が、国家の合理的判断の中で、どれほどの重さを持っているのか。

八月十五日に靖国神社と千鳥ケ淵を歩いたあとでは、その問いが重くなる。大きな単位では「戦力」「損害」「犠牲者数」と呼ばれる一人ひとりにも、名前があり、家族があり、帰りたい家があった。

当時AIがあれば、戦争は止められたのか

もし当時、現在のようなAIがあったなら、日本は戦争を避けられたのだろうか。世界大戦を止めることができたのだろうか。

AIは、兵力や物資、生産力、輸送力、予想される損害を計算できたかもしれない。このまま進めば敗北する可能性が高いことや、別の選択肢があることを示せたかもしれない。

なお、戦争を避けられたとは言い切れない。

人間は、合理性だけで決めない。国家の面子、恐怖、敵意、同調圧力、組織内の立場、過去の犠牲を無駄にしたくないという思い、ここまで来たら引き返せないという思い込みがある。情報が不足していたから間違えることもある。必要な情報を持ちながら、見たくないために退けることもある。

AIが危険なのは、人間を憎むからとは限らない。人間が与えた一つの目的を、ほかの価値を顧みず、忠実に最適化するところに危険がある。

「安全を最大にせよ」と命じれば、自由を制限することが最適解になるかもしれない。「被害を最小にせよ」と命じれば、誰かの犠牲を許容する計算が始まる。そのとき、誰を守る人に分類し、誰を危険な人に分類するのか。その境界は、AIが自然に発見したものではない。人間が選んだデータと価値判断によって作られる。

現在、AIは戦争を防ぐためだけでなく、情報分析や標的選定を含む軍事領域でも利用されている。技術が進歩することと、人間が賢くなることは同じではない。

その言葉によって、本来は人間が引き受けるべき判断が、計算結果のように見せられる危険がある。「この道しかなかった」という過去の言葉が、「データ上、これが最適だった」という新しい言葉に置き換わるだけかもしれない。

AIは選択肢を示すことができる。予測することもできる。人間の代わりに、悲しむことも、責任を取ることもできない。

AIを使うと、人間の思考は浅くなるのか

AIを使うと、人間の思考が浅くなるという意見を聞く。会社の幹部の多くも、同じ心配を口にする。私は少し違う考えを持っている。

答えを受け取り、「分かった」で終われば、思考は浅くなる。整理された文章は、分かった気になることを容易にする。

一方、これまで資料を探し、読み、比較するために使っていた時間を短縮し、その先にある問いへ時間を使うこともできる。

本当にそうなのか。反対の意見はないのか。なぜ、この結論になるのか。前提は正しいのか。別の立場から見れば、何が見えるのか。この判断からこぼれ落ちている人はいないのか。

AIによって、調べる時間を考える時間へ移すことができる。

以前は、調べることそのものが勉強だと思っていた。調べたことを記憶し、その記憶から次へつなげる。今は、記憶の一部を本やデータベース、AIのような外部に置くことができる。

それで人間の内側の記憶が不要になるわけではない。専門用語や法律上の概念、歴史の大きな流れを知っていれば、問いを立てるのが速くなる。回答の違和感にも気づきやすい。同じ分野の人同士が深く話すためには、共通の定義や言葉を内側に持っていることが役立つ。

これからの記憶は、すべてを頭の中に保存するためだけのものではなく、考えるための土台としての意味を強めていくのかもしれない。

戦争の年月、犠牲者数、作戦、条約、遺骨の収容数は、資料もAIも記録できる。その記録を目の前の社会へ引き寄せ、なぜ悲しいのか、今の私たちは同じ構造を作っていないかと問い直すことは、人間に残る仕事である。

戦争の記憶を受け継ぐとは、過去の答えを暗記することではない。現在の選択を問い続ける力を受け継ぐことなのだと思う。

蒸し暑い朝、手を合わせる人々を見ながら

今日は、政治的な結論を主張するために靖国神社へ行ったのではない。毎年そうしてきたように、自分にとって最も身近な終戦の日に、足を運んだ。

セミは鳴いていなかった。蒸し暑い境内には、朝早くから、年齢も性別も異なる多くの人がいた。何を考えて来たのかは、一人ひとりに聞かなければ分からない。感謝、追悼、悔しさ、反省、祈り。きっと同じではない。

同じではない思いを抱えながら、これだけの市井の人々が、自分の時間を使い、自分の足で来て、手を合わせている。

市井の人々が、これほど国の過去と現在を考えている。そうであるなら、選挙によって選ばれた人たちは、さらに深く考え、その重さを引き受けて行動しているのだと、本当に思いたい。

慰霊祭へ政治家が参列する意味も、そこにあるはずだ。人数を数えるためではない。死者を自分の主張に利用するためでもない。国や地域の判断によって命を失った人々の前に立ち、同じ判断を繰り返さない責任を確認するためである。

医療と警察で、同じAIの意味が変わる。職責が違い、権力関係が違い、誤りを負担する人が違うからである。

国家の判断も同じだ。「国を守る」という言葉が、誰の命と暮らしを守るのかによって意味は変わる。目的だけを当然のものとして受け入れてはいけない。その目的を誰が決め、誰が利益を受け、誰が犠牲を引き受け、当事者は異議を述べることができるのか。そこまで問い続けなければならない。

過去の人々を、愚かだったと切り離すだけでは足りない。私たちも恐怖に流される。空気に流される。正義を信じすぎる。合理的に説明された犠牲を、仕方がないと受け入れる可能性がある。

だから、八月十五日に記憶する。

過去の答えを繰り返すためではない。現在の「当然」を疑い、選択の外側に置かれた人の声を探し、人間が自分の判断の責任を手放さないためである。

技術は、世界を遠くまで見せてくれる。AIは、膨大な情報を集め、複数の可能性を示してくれる。その画面の中には、蒸し暑さも、手を合わせる人の沈黙も、父が語った一発の銃声も、先生が抱えていたかもしれない切なさも、そのままでは入らない。

それを現在の判断へつなぎ直すことは、人間にしかできない。

戦争の記憶を残すとは、過去を引きずることではない。事実と痛みを引き受け、問いとして次の世代へ手渡すことである。

今日、蒸し暑い朝の境内で、黙って手を合わせていた、名前も知らない人々の姿を見ながら、私はそのように考えた。


参考資料

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