見出し画像

剣崎宗一郎は、かつての師に、最後にして最高の授業を受けてもらう必要があると判断・・・【小説】63歳の知性が最新詐欺を完全論破する『パンドラ・ファイル』(その8)『落日の獅子(ライオン) ~師に贈る最後のロジック~』第一部:完璧なる「投資案件」 第1章:かつての師匠の背中

 東京・銀座四丁目の喧騒を離れ、細い路地に入った場所にある会員制バー『ル・シエル』。
 重厚な真鍮しんちゅうのドアを開けると、そこには外界の時間を止めたような静寂と、最高級のモルトウイスキーの香りが漂っていた。

 剣崎宗一郎けんざきそういちろうは、いつもの隅の席でグラスを傾けていた。
 六十三歳。かつてはシステムエンジニアとして、また辣腕の経営コンサルタントとして、幾多の企業の荒波を乗り越えてきた。
 今は表向き、悠々自適の隠居生活を送っている。だが、彼には公にできない「顔」があった。
 全人口の上位2%のIQ(知能指数)を持つ者が集う国際団体『NOUSノウス』。その公開された権威の裏側で、論理と技術を武器に社会の悪意バグをデバッグする秘密組織『PANDORAパンドラ』のリーダー、コードネーム「Axiomアクシオム(公理)」としての顔だ。

 これまで彼はPANDORAパンドラの仲間たちと共に、多くの「現代の捕食者」を葬ってきた。
 SNS型投資詐欺霊感商法若き才能を食らう代理人詐欺、そしてAIを使った性的脅迫……。
 だが、今夜この場所で出会うことになる「獲物」は、これまでのどの事件よりも残酷な姿をしていた。

「……草薙さん?」
 剣崎は思わず声を上げた。

 数メートル先、カウンターの中央に座る老紳士。
 草薙慎介(くさなぎ・しんすけ)、六十八歳。
 元・大手総合商社の副社長であり、三十年前、まだ若かりし剣崎に「ビジネスの戦い方」のすべてを叩き込んだ恩師である。

「おお、剣崎じゃないか。久しぶりだな」
 草薙が振り返る。
 その眼光は、数千億円規模のプロジェクトを差配さはいしていた現役時代と変わらず、鋭く、自信に満ち溢れていた。剣崎にとって、この男の背中は常に「一生かかっても追い越せないいただき」そのものだった。

「ご無沙汰しております。お元気そうで何よりです」
「ああ、退屈して死にそうだったが、ようやく面白い仕事に出会えてな。……紹介しよう。私の新しいビジネスパートナー、美玲みれいさんだ」

 草薙の傍らで、一人の若い女性が優雅に会釈した。
 美玲(みれい)。見たところ二十四、五歳くらい。
 派手さはないが、知性を感じさせる落ち着いた装い。その瞳には、老練な商社マンである草薙をとりこにするだけの、不思議な透明感があった。

「彼女は、私がかつてアフリカで手がけた資源開発の夢を引き継いでくれる逸材でね」
 草薙は、カウンターに置かれた一冊の豪華なパンフレットを軽く叩いた。
「アフリカの未開発地域で見つかった希少宝石の『ルミナス・アイ』。その独占採掘権の取得だ。私は既に一億円を投じている。近々、追加で二億を入れる予定だ」

「一億……。草薙さん、失礼ながら、現地への調査デューデリジェンスは済んでいるのですか?」
 剣崎の言葉に、草薙は不敵な笑みを漏らした。

「剣崎。君に教えたはずだ。『数字と事実は自分の目で見ろ』とな。……現地視察の映像も、財務諸表も、向こうの大統領からの親書も、すべて私が精査した。完璧な案件だ。私の直感が、これは『本物』だと告げている」

 完璧。
 その言葉を聞いた瞬間、剣崎の胸の奥で、警笛が鳴り響いた。
 草薙のような「天才」が最も陥りやすい罠。それは、自分自身の知性に対する無謬性むびゅうせいの神話だ。

「そう、草薙さんのロジックは本当に素晴らしいんです」
 美玲が鈴を転がすような声で言った。
「私が言葉足らずな部分も、すべて草薙さんが先回りして補完してくださる。まるで、私の心の中にある答えを、草薙さんが導き出しているみたいで……」

 その美玲の言葉に、剣崎はさらなる違和感を覚えた。
 彼女は、草薙を「説得」していない。
 草薙が自分で構築した「勝利の物語」に、ただ相槌を打っているだけだ。

「剣崎、君も一口乗るか? 昔のよしみで特別枠を用意させよう」
「……いえ、まずはこのお酒をゆっくり楽しませていただきます」

 剣崎は努めて穏やかに答えたが、グラスを持つ指先には微かな緊張が走っていた。
 獅子は老いたのではない。
 あまりに巨大なプライドというよろいが、外部からの「正論」という矢をすべて跳ね返してしまう無敵の牢獄に、自ら閉じこもっているのだ。

 別れ際、剣崎はさりげなく美玲の指先を見た。
 彼女が大切そうに抱えていたパンフレット。その端に、ほんの数ミリ、不自然な印刷のズレがあった。

「メティス(※注:剣崎の自分専用AIシステムの愛称)、起動」
 バーを出て、雨上がりの銀座の風に吹かれながら、剣崎はスマートウォッチに話しかけた。
『はい、宗一郎さん。既に周辺の音声データと画像の解析準備は整っています』

「草薙さんが持っていた案件を洗え。……それと、PANDORAパンドラのメンバーを招集しろ。……私の『先生』に、最後にして最高の授業を受けてもらう必要があるようだ」

(第2章に進む)