64歳・剣崎宗一郎の知性が最新詐欺を完全論破する小説『パンドラ・ファイル』その14『共犯者の帰還(アカウント・ループ)』第3章:賢者たちの診断
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「どうぞ、お入りください。宮坂澪さんですね。広瀬くんから事情は聞いています」
重厚な木製のドアが開いた先は、澪が想像していたような「怪しげな事務所」とは正反対の空間だった。
壁一面の整然とした本棚、クラシックで上質な革張りのソファ、そして窓から差し込む柔らかな光。そこに立っていたのは、白髪が美しく、仕立ての良いシャツを着こなした非常に上品な紳士――剣崎宗一郎だった。
「初めまして、剣崎です。突然お呼び立てして申し訳ありません」
「は、初めまして……宮坂澪です……」
恐怖と混乱で震えが止まらない澪に、剣崎は穏やかな、しかし包み込むような低音で語りかけた。その佇まいと清潔感に、澪はそれだけで胸の奥の冷たい塊が少し溶けていくのを感じた。
「あの、剣崎先生。こいつ、マジでパニクってて。俺、とりあえず送金だけは止めろって言って連れて来たんですけど」
横に立つ広瀬先輩が、いつもの少し軽い調子で口を開く。
剣崎は広瀬に視線を向け、ほんの一瞬だけ、目元に微かな信頼の光を走らせた。だが、それはコンマ数秒のことで、すぐに仕事上の「エンジニアの広瀬くん」を扱う態度へと切り替わった。
「ええ、広瀬くん。実に見事な判断でした。宮坂さん、まずはそのソファにかけて、温かいものでも飲んで落ち着いてください」
澪が案内されるままソファに腰を下ろすと、部屋のデスクの脇に置かれた洗練されたデザインのスマートスピーカーから、穏やかで知的な女性の音声が流れた。

『宮坂様、広瀬様、お疲れ様でした。お口に合うか分かりませんが、ダージリンの紅茶をご用意いたしました。緊張を和らげる効果がございますので、どうぞ温かいうちにお召し上がりください』
「え……?」
澪が驚いてスピーカーを見つめると、剣崎が苦笑交じりに言った。
「私の自作している会話型システムで、メティスと言います。気兼ねなく『彼女』の用意した紅茶を飲んでください」
「あ、ありがとうございます……」
出された紅茶を口に含むと、香りと温かさが全身に広がり、澪の強張っていた肩の力がようやく抜けていった。
「さて、と」
剣崎は、澪の様子が少し落ち着いたのを見計らい、姿勢を正した。
「宮坂さん。あなたから直接、何が起きたのかをお聞きしてもよろしいですか。辛ければ、話せる範囲で構いません」
澪は、ゆっくりと、しかし絞り出すように話し始めた。
生活費が苦しかったこと。SNSのお金配り10万円に応募してしまったこと。当選して口座情報を伝えた翌日、口座に10万円ではなく100万円が振り込まれていたこと。そして、詐欺師から「誤送金だから90万円を今すぐ返せ、さもなければ横領罪で警察に通報する」と脅されていること。
すべてを話し終えると、澪の目から涙がこぼれ落ちた。
「私、ただ10万円が貰えると思って……。自分の口座にお金が入ってきただけなのに、どうしてこんなに脅されなきゃいけないんですか? 本当に、私が悪いことをしたんでしょうか……」
「いいえ、宮坂さん」
剣崎は、机の上の書類を片付け、静かに首を振った。
「あなたは何も悪くありません。悪いのは、あなたの『お金に困っている』という心の弱さに、容赦なく付け込んできた技術的悪意――すなわち詐欺師たちです。そして、よくお金を送金せずに、踏みとどまってくれました。もしあなたが今、彼らにその90万円を送金していたら、取り返しのつかない事態になっていました」
「取り返しのつかない事態、ですか……?」
「はい。実は、広瀬くんから連絡を受けた時点で、私の知人である優秀な金融アナリストに、宮坂さんの口座に振り込まれた『100万円の流れ』を追跡してもらっていました。……ちょうど、分析結果が届いたところです」
剣崎がオフィスの壁にある大型ディスプレイを起動すると、そこに複雑な資金の移動ルートを記した図解が表示された。
「宮坂さん。一見、相手の手違いに見える『誤送金』の裏にある、恐るべき真実をお話ししましょう」

「宮坂さん、この図を見てください」
剣崎は、壁の大型ディスプレイに表示された一本の赤い矢印を指し示した。
「あなたに『100万円』を振り込んできた名義人は誰になっていますか?」
「えーと……、たしか『コバヤシシゲオ』さんという個人名でした。プレゼント企画の主催者である実業家の方とは、全然違う名前です」
「そうですね。では、そのコバヤシさんは誰なのか。……私の知人が追跡したところ、このコバヤシさんは現在、別の『SNS型投資詐欺』の被害に遭っている、地方在住の70代の男性であることが分かりました」
澪は思わず、持っていたカップを落としそうになった。
「え……? 被害者、ですか?」
「そうです。コバヤシさんは詐欺師に『指定する口座に投資資金を振り込め』と言われて、指示されるままにあなたの口座へ100万円を直接振り込んだのです。つまり、あなたに届いた100万円は、最初からプレゼント当選金などではなく、別の犯罪で今まさに騙し取られた、生々しい『被害金』そのものだったのです」
「そんな……!」
澪の顔から、完全に血の気が引いた。
「詐欺師は、自分の手元に一度もお金を入れずに、宮坂さんという全く無関係な人間の口座を、一時的な『中継地点(デポ)』として利用したのです。そしてあなたに『手違いだから指定の口座に返せ』と脅して、90万円を別の場所へ送金させる。……さて、この段階で、大元の被害者であるコバヤシさんが警察に『詐欺に遭った。振込先はミヤサカレイの口座だ』と被害届を出したら、どうなるでしょうか」
剣崎先生の静かな問いかけに、広瀬先輩(Bit)が真剣な表情で割って入った。
「警察が真っ先に疑うのは、振込先口座名義人の澪、お前だよ」

「警察から見たら、澪の口座は『詐欺グループの資金回収口座(受け皿)』にしか見えない」
広瀬先輩は腕を組んで、ディスプレイのデータを指差しながら澪に言った。
「お金をだまし取られた被害者と、送金を受けてマネロンを完了させた詐欺師。その両方を繋ぐ唯一の『実在する人間』として、お前が最前線に立たされるんだ。詐欺師は身元をうまく隠してるから、警察がお前を『詐欺の共犯者』、つまり、最近、特殊詐欺のニュースでよく逮捕されたって聞くだろ、『出し子』か『受け子』だと疑ってくるのは当然の流れだ」
剣崎先生が広瀬先輩の言葉を引き継いで、厳かなトーンで語りかける。
「さらに恐ろしいのは、一度でもあなたの名義の口座が『不正利用口座(ブラックリスト)』として、日本全国の銀行や金融機関が皆、必ず加盟あるいは関係している全銀協(全国銀行協会)に登録されると、国内すべての金融機関共同の凍結連鎖システムが作動する点です。宮坂さん、これは大変重い処分です。あなたが使っている他のすべての銀行口座が、全く不正も引き落とし失敗も何もなく大切に使っていた別の銀行の口座も含めて、一切の例外もなく凍結されて、給料の受け取りも、スマホの通信費の引き落としもできなくなります。さらに、この先、一生、どの銀行でも新規に口座を開設することができなくなります。銀行だけではありません。信用金庫も信用組合も労働金庫も農協も漁協も、最近では何とかPayさえも例外ではなく、ほぼひとつ残らずおんなじです。つまり、この日本の現代社会における事実上の『社会的な死』を意味するのです」
(※執筆者注:詳しくはリンク先参照)
澪は膝の震えを止めることができなかった。
もし、広瀬先輩が電話をくれずに、そして澪自身の銀行口座のネットバンキングの1日の振り込み制限額の安全装置さえも機能せずに、あの焦りのままに90万円を相手の指定口座に振り込んでしまっていたら…
目の前が真っ暗になる。あまりの恐怖に、涙すら出なくなっていた。
「私は……ただ、少しでも生活を楽にしたくて、10万円に目が眩んで……。取り返しのつかないことを、しようとしていたんですね……」
「宮坂さん、泣く必要はありません」
剣崎は、驚くほど優しい笑みを浮かべ、澪の前に新しいお茶を置き直した。
「あなたが送金を踏みとどまったことで、あなたの未来は守られました。ここから先は、我々の領域です。あなたを陥れ、無関係な人々から金を貪り喰らう技術的悪意を、徹底的にデバッグしましょう」
「デバッグ、ですか……?」
「ええ。彼らが構築した『自動で金を騙し取るシステム』には、彼ら自身が気づいていない、致命的な論理のバグが存在します。彼らがあなたに『警察に通報する』と脅してきたそのロジックを、そのまま彼らの首元へ突き返して差し上げましょう」
剣崎の力強い、しかし確信に満ちた言葉に、澪は顔を上げた。
暗闇しかなかった彼女の目の前に、一筋の、しかし極めて強固な希望の光が差し込んだ瞬間だった。
(第4章へ続く)

