10万円当選。それは社会的な『死』への、カウントダウンだった――。64歳・剣崎宗一郎の知性が最新詐欺を完全論破する小説『パンドラ・ファイル』その14『共犯者の帰還(アカウント・ループ)』(全7章)第1章:届いた「幸運」の通知
手取り十数万、奨学金という名の借金の返済に追われる新卒会社員・宮坂澪。
窮地のなか、SNSの「お金配り企画・10万円」に応募した彼女の口座に、なぜか約束よりひとケタ多い「100万円」が振り込まれる。
直後に届いた、主催者からの冷酷なメッセージ。
「誤送金した90万円をすぐに返せ。さもなくば、横領罪で警察に突き出す」
法律を歪めた脅迫にパニックに陥る澪を救うため、元システムエンジニアの64歳・剣崎宗一郎率いる影のデバッグチーム「パンドラ」が動き出す。
知性の「盾」とデジタルの「矛」を武器に、彼らが仕掛けた鮮やかな「ロジックの罠(デバッグ)」とは?
日常に潜む甘い罠と、それらを一刀両断する知的なカタルシスを描く、本格詐欺撲滅サスペンス、その14。
「知性とは、自分を守り、他者を救うためにある」by 剣崎宗一郎
「また、上がってる……」
宮坂澪は、スマートフォンの画面に表示された電子家計簿アプリを見つめ、小さくため息を漏らした。
削れる支出はすべて削ったはずだった。
自炊を徹底して、昼食は手作りの質素なおにぎり。
エアコンの温度は夏でも冬でも控えめに設定している。
それなのに、電気代や食品の物価上昇の波は容赦なく彼女の家計を直撃していた。
今年、大学を卒業して都内の中堅商社に就職した澪。
手取りの月給は二十万円に満たない。そこから家賃、光熱費、そして毎月引き落とされる「奨学金という名目の借金」の返済。すべてを引き算していくと、手元に残る「自由になるお金」は数千円しかなかった。
同期たちが週末に話題のカフェや流行の服について話しているとき、澪は
「ごめん、ちょっと用事があって」
・・・と、笑顔でその場を去るしかなかった。
本当は、千円のランチ代さえ捻出するのが惜しかったのだ。
(一生、この生活が続くのかな……)
ワンルーム賃貸マンションのベッドに横たわり、天井を見つめる。
若さという輝かしい季節のはずなのに、私の毎日はただ、お金の心配と引き換えに、消費されていく…
そんなある夜、澪はいつものように現実逃避を求めてSNSのタイムラインをスクロールしていた。
きらびやかな旅行の写真や、成功者たちの誇らしげな言葉が並ぶデジタル空間。
その中に、ひときわ目を引く投稿が流れてきた。

その投稿の主は、メディアでもたびたび見かける有名な青年実業家のアカウントだった。
アイコンには自信に満ちた彼の笑顔があり、投稿文にはこう書かれていた。
日本を元気にしたい🐲
今回は、若者や夢を持つ人を応援するため、無条件で100名に【10万円】をプレゼントします💒
応募方法は、このアカウントをフォローして、この投稿をリツイートするだけ€
当選者には直接DMします💴
普段の澪なら、
「どうせ宣伝目的の企画だろう」
・・・と、適当に流していたはずだった。
しかし、今夜の彼女は違った。
銀行口座の残高が、あと三桁の数字しかない極限状態。
明日になれば、また新しい一週間が始まり、あのすり減るような満員電車と数字の計算が待っている。
(もし、本当に10万円が当たったら。……一ヶ月分の家賃と、少しの美味しいご飯が食べられる。応募するだけなら、タダだし)
澪は吸い込まれるように、画面をタップした。
フォロー。そして、リツイート。
送信ボタンを押した、その瞬間。
わずかな罪悪感と、それ以上に淡い期待が胸を満たした。
それは、暗闇の海に小さな浮き輪を投げ入れたような、あまりにも頼りない祈りだった。
それから三日後の夜。
スマートフォンの画面が、聞いたことのない短い通知音と共に、青く明滅した。
画面を開くと、そこには一通のダイレクトメッセージ(DM)が届いていた。
おめでとうございます😮
厳正なる抽選の結果、あなた様が
10万円プレゼントの当選者に選ばれました🎉
澪の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。

「本当に、当たった……?」
澪はスマートフォンの画面を凝視した。
ダイレクトメッセージに表示された送り主のプロフィールを確認する。
確かにあの有名な青年実業家の名前と写真が表示されている。
舞い上がっていた澪は、そのユーザー名の末尾に本物には存在しない微細な記号が紛れ込んでいることにも、公式の認証バッジ(チェックマーク)が付いていないことにも、まったく気づかなかった。
メッセージは、事務的でありながら丁寧な口調で続いていた。
つきましては、当選金をお振り込みするための口座情報をご入力ください。
【必要情報】
・銀行名
・支店名
・口座種別(普通・当座など)
・口座番号
・口座名義(カタカナ)
※本日中にお送りいただければ、明日中にお振り込みが完了いたします。
(口座番号と名前だけなら、悪用される心配はないよね……?)
(影の声:いや、これは実は、なかなか通常の生活では気づかない、大きな間違いだったのです。見知らぬ相手に自分の銀j行口座情報を教える…それがなぜ間違いなのかは、このお話が進むにつれ、段々と分かってくることでしょう)
多少の警戒心はあった。
しかし、「明日中にお振り込み」という言葉が、澪の心の防壁をあっさりと突き崩した。
これで、もやしと豆腐だけの夕食から解放される。
引き落とし直前の、あの胃がキリキリ痛むような恐怖を感じなくて済むのだ。
澪は自分の給与振込口座の情報を入力し、多少は躊躇いながらも送信ボタンを押した。
「よろしくお願いします」
送信されたメッセージを見つめながら、澪は久しぶりに深く息を吸い込むことができたような気がした。
翌日の昼休み。
澪はオフィスの給湯室の隅で、周囲を気にしながらスマートフォンのネットバンキングアプリを起動した。
(本当に、振り込まれているのかな……)
ログイン時の指紋認証を行い、残高画面が表示された瞬間、澪は息を呑んだ。

画面に表示された数字は、彼女が期待していた「100,432円」ではなかった。
「一、十、百、千、万……えっ?」
1,000,432円。
桁が明らかに、一つだけ、違っていた。
何度も目をこすり、画面をリロードしたが、数字は変わらない。
10万円ではなく、100万円が振り込まれている。
混乱する澪のスマートフォンが、突然、鋭い通知音を鳴らした。
あのSNSのダイレクトメッセージだった。
宮坂様、大変な手違いが発生してしまいました。
システムの不具合により、他の方へ送るはずだった当選金を含めた【100万円】が、誤って宮坂様の口座に振り込まれてしまったようです。
澪は、まるで深海から急に海上に釣り上げられた魚のように心臓が口から飛び出しそうになるほどの動悸を覚えた。
当方の確認ミスでご迷惑をおかけし、大変申し訳ございません。
つきましては、当選金である10万円はそのまま宮坂様が受け取っていただいて構いません。
しかし、残りの90万円については、本日中に当方が指定する以下の暗号資産(仮想通貨)のアドレス、またはこちらの指定口座へ速やかに送金し、
返却してください。
これは当方の財産であり、
もし本日中にご返却いただけない場合、
民法上の不当利得の返還義務違反、
および刑法上の横領罪として、
直ちに警察へ通報し、
法的措置をとらせていただきます。
何卒、迅速なご対応をお願いいたします。
「横領罪……? 警察……?」
頭が真っ白になった。
お昼休みの喧騒が遠のき、冷たい汗が背中を伝う。
手元には、自分の口座に入ってしまった見知らぬ90万円。
そして、「返さなければ犯罪者になる」という、冷酷な脅迫。
澪の日常は、一夜にして底なしの泥沼へと変貌していた。
(第2章へ続く)

