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64歳・剣崎宗一郎の知性が最新詐欺を完全論破する小説『パンドラ・ファイル』その14『共犯者の帰還(アカウント・ループ)』第2章:口座の数字と、見えざる罠

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 オフィスのトイレの個室に駆け込んだれいは、内鍵を閉めると同時に便座に崩れ落ちた。

 頭の中で、詐欺師からのメッセージが不快なノイズとなってリフレインする。
『本日中にご返却いただけない場合、横領罪として直ちに警察へ通報します』

「どうしよう……どうしよう……!」

 自分の口座に入っている100万円は、本来の持ち主のところに返さなければならない。それは分かる。だが、なぜ10万円だけを手元に残し、残りの90万円を指定された「暗号資産のアドレス」や「見知らぬ他人の口座」に送金しなければならないのだろうか。

「でも、返さなかったら私が警察に捕まる……。会社にも親にも知られて、私の人生は終わる……」

 れいは震える指先で、送金方法を検索した。暗号資産の口座など持っていない。今から急いで口座を開設しようとしても、本人確認に何時間もかかるという。

 すると、詐欺師からまるでれいの焦りを監視しているかのように、追撃のメッセージが届いた。

口座開設が間に合わない場合は、
以下の銀行口座へ午後三時までに
『電信振込』で90万円を振り込んでください。
時間が過ぎた時点で、当方の弁護士が警察へ被害届を提出します。

 メッセージに記載されていたのは、聞いたこともない地方銀行の、個人名義の口座だった。

(早く返さなきゃ。とにかく、このお金を手放さなきゃ……!)

 れいはネットバンキングアプリを操作し、指定された口座へ90万円を振り込もうとした。しかし、振込金額を入力して実行ボタンを押した直後、画面に冷酷な赤い警告文が表示された。

『ワンタイムパスワードの設定、または1日の振込限度額の制限により、この金額の振込は実行できません。限度額変更には書面または本人確認手続きが必要です』

「嘘……、なんで……!」

 セキュリティのための制限(例えば、銀行のネットバンキングからの1日の送金限度額の初期設定が50万円などと定められているのはよくあること)が、今はれいを縛る鎖となっていた。窓口に行って手続きをする時間はない。午後三時まで、あと二時間を切っている。

 極限の恐怖とパニックで、喉の奥がカラカラに乾き、呼吸が浅くなる。個室の狭い空間が、まるで彼女を押し潰すように迫ってくる感覚に陥った。

 その時だった。
 握りしめていたスマートフォンが、突如として大音量で震え出した。

 画面に表示されたのは、登録されている連絡先からの着信だった。
 表示名は『広瀬先輩』。

 大学時代のプログラミングサークルの先輩であり、現在はIT関係の仕事をしているという、少し風変わりで軽薄な、しかし技術だけは天才的な先輩だった。

 れいは藁にもすがる思いで、通話ボタンをスライドした。

「せ、先輩……!」
「お、れい? つながった。今どこにいる?」

 電話の向こうから聞こえる広瀬先輩の声は、いつもの気の抜けたトーンとは異なり、妙に張り詰めていた。

「会社です……。先輩、私、どうしたらいいか分からなくて……警察に……」
「落ち着け、れい。まず俺の質問に答えろ。お前、三日前にSNSで『10万円配り』の投稿をリツイートしただろ?」
「え……? はい、そうです。なんでそれを……」
「やっぱりか。お前のタイムライン見て嫌な予感がしたんだ。あの実業家のアカウント、本物の画像をコピーしただけの『偽物』だぞ。DMが来て、口座情報を教えちまったか?」

 れいは息を詰まらせた。
「……はい。口座番号と名前を……。そしたら、100万円が振り込まれて……。間違えたから90万円をすぐに指定口座に返せって言われてるんです。返さないと横領罪で警察に突き出すって……!」

 電話の向こうで、広瀬先輩が短く、鋭い舌打ちをする音が聞こえた。

「最悪だ…。お前、完全に『マネロン還流スキーム』にハメられてる」
マネロン……?
「いいか、れい。今から言うことを一言も聞き漏らすな。絶対に、その90万円を1円たりとも送金するな。 振り込みも、暗号資産の送金も、絶対にだ」
「でも、午後三時を過ぎたら警察に……!」
警察を呼ぶのはこっちだ! いや、お前が今送金したら、お前自身が『詐欺の共犯』として警察に捕まるんだよ!」

 広瀬先輩の怒声に近い警告に、れいの思考が完全にフリーズした。共犯。自分が、犯罪者になる。

「……意味が、分かりません……」
「電話じゃ説明しきれない。今すぐ会社を早退しろ。体調不良とでも何とでも言え。そして、今から俺が送る住所に来い。お前を助けられる、本物のプロがいる場所に連れて行く」

「本物のプロ……?」

「いいな、スマホは操作するな。ただ電源を入れて、俺のナビ通りに動け」

 電話が切れた。
 れいは震える手でスマートフォンの画面を拭い、上司に「急に目眩がして立っていられない」と震える声で告げて、這いずるように会社を飛び出した。

 向かったのは、東京・港区のきらびやかな高層ビル街から少し外れた、古い雑居ビルの立ち並ぶ一角だった。
 指定された住所のビルの三階。
 年季の入った廊下の突き当たりに、重厚な木製のドアがあった。その横には、小さな真鍮のプレートに、静かなフォントでこう刻まれていた。

『K・コンサルティング』

 れいが意を決してドアノブに手をかけた時、背後から「よお」と声がした。
 振り返ると、パーカー姿にリュックを背負った広瀬先輩――パンドラの『Bit』――が、真剣な眼差しで立っていた。

「よく送金せずに耐えたな。入ろう。俺たちのリーダーがお待ちかねだ」

第3章に続く