小説『夜明け前のボヘミアン・ラプソディ』第四章:それぞれの孤独な旅路
1
正平が店に来なくなってから、二週間が過ぎた。
八月の終わり。夜風には微かに秋の気配が混じり始めていたが、京子の心は熱帯夜のように湿って重かった。
深夜二時のアパート。
パートから帰宅した京子は、メイクも落とさずに布団の上で自分のアイフォンを凝視していた。
画面の向こうには、彼女の味方がたくさんいた。
『その男は典型的な反日だ。相手にするな』
『京子さんは間違っていない。日本の誇りを守ったんだ』
『店に行って俺が論破してやりたいくらいだ』
あの夜の出来事を投稿してから、彼女のフォロワーは急増していた。通知欄には絶え間なく「いいね💖」のハートマークが並ぶ。それは疲弊した彼女の自尊心を満たす、甘い麻薬だった。
私は一人じゃない。私にはこんなに同志がいる。
そう思うたびに、胸の奥が熱くなる。
……はずだった。
ふと、京子は画面をスクロールする指を止めた。
並んでいる言葉は勇ましい。過激で、攻撃的で、敵を罵倒する言葉に満ちている。
以前なら、それに高揚感を覚えていただろう。だが今、彼女の耳には、別の音が幻聴のように響いていた。
『♪遠回りをしてた人生だけど、君だけが今では…愛の全て…』
坂本九の『心の瞳』。
正平が、お店で、いつだったか、一回だけ歌っていたことのある、あの包み込むような低音だ。
SNSの文字は、確かに「正しい」のかもしれない。けれど、そこには体温がなかった。画面の向こうの同志たちは、京子が深夜の酔客に頭を下げている時、そばで見守ってはくれない。京子が風邪を引いて寝込んでも、お粥を届けてはくれない。
彼らが愛しているのは「愛国者の京子」であって、「生身の京子」ではないのだ。
「……虚しいなぁ」
ぽつりと漏れた言葉に、京子自身が驚いた。
正平は、思想は全く違った。けれど、彼は京子が『筋肉少女帯』を歌えば苦笑いしながら拍手をし、仕事の愚痴を言えば静かにグラスを傾けて聞いてくれた。
あのスナックのカウンターで、クィーンを歌いながら交わした視線。あの一瞬の温もりは、何万件の「いいね💖」よりも、今の京子が必要としているものだったのかもしれない。
京子はスマホの画面を伏せた。部屋の闇が、一層濃くなった気がした。
2
週末の午後。正平は自宅で、青空文庫ではなく今日はリアルに読み古した文庫本の方を開いていた。
夏目漱石『私の個人主義』。
いつもなら、この本が彼の精神的な支柱となり、世間の同調圧力から彼を守るシェルターとなっていた。だが今日は、活字が上滑りして頭に入ってこない。
『私のいう個人主義は、決して他人の存在を無視するものではありません』
その一節が、棘のように胸に刺さる。
正平は、ふと、眉間を揉んだ。
あの夜、彼は「思考停止だ」と京子を断じてしまった。論理的には間違っていないつもりだ。だが、それは「正しさ」という名の暴力ではなかったのか。
彼は思い出す。京子の荒れた指先を。
彼女は昼も夜も働き詰めで、それでもいつも小奇麗な格好をして、背筋を伸ばしていた。
彼女にとっての「国への誇り」や「伝統」とは、政治的なイデオロギーである以前に、この過酷な現実を生き抜くための「杖」だったのではないか。
その杖を、安全な場所で、若い頃の働きによる、同世代の男性よりは随分多額の貯蓄を背景に精神的負担の非常に少ない在宅の仕事を続けながらのんびりと暮らす自分が、理屈でへし折ったのだ。
それは「個人主義」ではない。ただの「傲慢」だ。ふと、そう気づいた。
「……凶のないおみくじ、か。」
正平は呟いた。
靖国神社の配慮を「優しい嘘だ」と嘲笑った自分。だが、京子は、もしかしたら、その優しさというものに救われていたのかもしれない。凶ばかりの人生の中で、せめて神社の境内では「吉」を感じていたいと願う切実さを、自分は想像力不足で切り捨てたのだ。
机の上には、スナック「あかつき」のボトルキープのカードが置かれている。
行こうか、と何度も思う。
だが、どんな顔をして京子に会えばいい?
謝罪の言葉は浮かぶが、思想の違いは埋まらない。また同じことの繰り返しになるのではないかという恐れが、彼の足を止めていた。
3
九月に入り、長雨が続いたある夜。
スナック「あかつき」のドアが開いた。
京子はハッとして顔を上げたが、入ってきたのは濡れた傘を持った見知らぬサラリーマン三人組だった。
「いらっしゃいませ……」
期待が失望に変わるのを悟られないよう、京子は微笑みを作る。
正平の席は空いたままだ。
彼の十八番だった『金太の大冒険』を歌う客は、他にはいない。
店内に流れる有線のポップスが、やけに空虚に響く。
京子はその夜、珍しく酔った勢いで、正平とよくデュエットした『ボヘミアン・ラプソディ』を一人で入れてみた。
だが、イントロが流れた瞬間、後悔した。
一人で歌うこの曲は、あまりにも隙間が多すぎた。
掛け合いの部分がない。ハモリがない。
彼女の声だけが、店内の壁に当たって虚しく跳ね返る。
「京子ちゃん、何か悲しいことでもあったの?」
常連客の一人に冷やかされ、京子は慌てて演奏停止ボタンを押した。
「まさか。ちょっと、音程外しただけよ」
強がって見せたが、グラスを持つ手は震えていた。
一方、その頃。
正平は傘を差し、店の入っている雑居ビルの向かいの通りに立っていた。
漏れてくる明かりを見上げる。
中に入る勇気はない。だが、このまま関係を終わらせていいとも思えない。
雨音が、二人の心の迷いをかき消すように降り続いていた。
二人はまだ知らない。
この静かな断絶の時間が、来るべき「嵐」の前の静けさであることを。
京子のSNSが拡散され、画面の中だけの「敵」や「味方」が、現実の扉を蹴破って侵入してくる時が近づいていた。
