小説『夜明け前のボヘミアン・ラプソディ』(全七章)第一章:スナック「あかつき」の不協和音
1
とある、水曜日の夜。
午後九時のスナック「あかつき」は、紫煙と安物の香水、そして底抜けに明るいシモネタソングに包まれていた。
「♪金太、負けるな、金太、負けるな~…」
マイクを握っているのは、正平だ。今年六十になったばかりの、白髪交じりの短髪が似合う初老の男。普段は在宅でフリーランスのシステムエンジニアとして、ディスプレイに並ぶ無機質なコードと格闘しているが、週に一度と決めてここに通うこの夜の時間だけは別人になる。
つボイノリオの『金太の大冒険』。
言葉遊びを駆使した、際どい歌詞のオンパレードである。他の酒場なら眉をひそめる女性客も多数居る選曲だが、この店だけは全く違った。
「…やだ、もうー、正平さん!相変わらず、いい声で、一体、何を歌ってんのよぅ!」
カウンターの中で、京子が腹を抱えて笑っていた。
四十八歳。目尻に刻まれた笑い皺さえもチャーミングに見せる彼女は、この店の新人従業員にして多くのお客の人気をすぐに集める、とっても魅力的な存在だ。奥のボックス席では、恰幅のいいオーナーママが常連客の焼酎ボトルを替えながら、同じようにケラケラと笑っている。
京子は、客の正平が楽しそうに歌うこの曲が大好きだった。昼間のスーパーのレジ係と、オフィスビルの清掃。二つのパートを掛け持ちして強張った神経が、正平の歌う馬鹿馬鹿しくも陽気なリズムで緩んでいく気がするのだ。
「いやぁ、この曲を笑って許してくれるのは、このお店くらいのものだよ」
歌い終えた正平が、照れくさそうに頭をかきながらカウンターに戻ってきた。
「あら、元気が出るじゃない。日本人はもっと大らかでいいのよ。昔の宴会なんて、もっとすごかったんでしょ?」
京子が水割りのグラスを差し出すと、正平は「違いない」と目を細めた。
正平にとって、京子は不思議な女性だった。
働き者だ。昼夜問わず働き詰めだと聞いているが、店に出ている時の彼女はいつも背筋がピンと伸びている。だらしない服装や言葉遣いを嫌い、酔っ払い相手でも凛とした態度を崩さない。どこか古風な「良き日本女性」の型を、自らに課しているようなストイックさがあった。
「じゃあ、次は私の番ね」
京子がデンモクを操作する。流れてきたのは、正平の世代にはあまり耳馴染みのない、激しいロックサウンドだった。筋肉少女帯の『日本ヲ印度ニシテシマエ…』って曲。
カオスな歌詞とヘヴィなサウンドに合わせ、京子がこぶしを効かせて熱唱する。
「♪オレにカレーを食わせろー!」
正平は苦笑しながら、しかしその熱量に圧倒されていた。普段の生真面目な京子のどこに、これほどのマグマが溜まっているのか。
彼女の選曲はいつもエキセントリックだ。けれど、それが彼女なりのストレス発散なのだと、正平は知っている。
2
日付が変わる少し前。店内の空気が少し落ち着いた頃、二人の「儀式」の時間がやってくる。
「正平さん、あれ、いっとく?」
「うん、喉も温まってきたしね」
二人が同時に選曲したのは、クィーンの『ボヘミアン・ラプソディ』だ。
英語の歌詞など、お互い適当だ。けれど、フレディ・マーキュリーのあのドラマチックな旋律だけは、二人の魂に共鳴した。
現実なんてどうでもいい――。
ピアノのイントロが流れ出すと、スナックの空気は一変する。
正平の深みのある低音と、京子のハリのある高音が重なる。
正平は、かつて企業戦士として働き、家庭を顧みずに離婚に至った過去の悔恨をメロディに乗せる。
京子は、子供に恵まれず、夫と別れ、一人で社会の荒波を泳ぎ続ける孤独と、それでもこの国を愛そうとする悲痛なほどの矜持を歌声に込める。
思想も、生きてきた道も違う。
正平は、スマートフォンで見ることが出来る「青空文庫」という、著作権切れの小説が多数無料で読めるアプリで、夏目漱石の小説を読んでいる。中でも「自己本位」という名の個人主義を説くその本は、彼のバイブルだ。
一方、京子のアイフォンには、過激な愛国スローガンを叫ぶSNSのアカウントが登録されている。彼女にとっての「正義」は、個人の自由よりも、国家という大きな物語に属することにある。
普通なら交わるはずのない二人。
だが、この六分弱の曲の中だけは、二人は完璧なハーモニーを奏でる共犯者だった。
曲がクライマックスを迎え、静かなピアノの後奏が流れると、店内からは自然と拍手が湧いた。
「やっぱり、二人のこれを聞かないと締まらないわねぇ」
お店の奥で、ママが満足そうに頷く。
3
時計の針がもうすぐ午前零時を指そうとしている。
正平は帰り支度を始める。彼は明日も、自宅のデスクでコードの海に潜らなければならない。
「お会計、お願い」
「はーい。今日もありがとう、正平さん」
京子が笑顔で見送る。
「気をつけてね。これから変な客が増える時間だろ」
正平が気遣わしげに言うと、京子は一瞬だけ疲労の色を滲ませたが、すぐに愛想の良い笑みで覆い隠した。
「大丈夫よ。私、こう見えても鍛えられてるから」
「そうか。じゃあ、また来週」
ドアが開く。外の冷たい夜気が流れ込んでくる。
正平が店を出ていく背中を見送った後、京子は小さく息を吐いた。
正平は知らない。
彼が帰った後の「あかつき」が、どれほど泥沼のような場所になるかを。
深夜零時半を過ぎれば、終電を逃した泥酔客や、仕事の鬱憤を晴らしに来るガラの悪い男どもがなだれ込んでくる。セクハラまがいの暴言、説教、あるいは理不尽なクレーム。
それらを笑顔で受け流し、時にはあしらい、酒を作る。
(私は、誇りある日本人なんだから)
京子は心の中で呪文のように唱える。
それは彼女がかつて学んだ、あるいはネットの中で信じている「教育勅語」のような規律だった。辛い時こそ、背筋を伸ばせ。歯を食いしばれ。個人的な感情を殺して、役割を全うしろ。
それが正しい「愛国心」のあり方だ。と、彼女は信じている。そう信じなければ、この理不尽な現実の底で、心が折れてしまいそうだったからだ。
一方で、正平は夜道を歩きながら、ふと数日前の正午過ぎにテレビで目にした風景を思い出していた。
東京・千代田区、九段下。
遊就館の展示室で映されていた、特攻隊員の遺書。若くして散った彼らの無念に思いを馳せながらも、彼は同じ敷地内にある本殿の映像には全く興味がなかった。
国家というシステムが個人を押し潰すことへの、彼なりの静かな拒絶。
境内にあるおみくじには、何故か「凶」が入っていないという話を聞いたことがある。…本当かどうか、きちんとは確かめていないのだが。
「……凶のないおみくじなんて…ま、それもいいか」
正平は独り、つぶやく。
自分の人生は、離婚という「凶」を経て、ようやく自分らしい「小吉」程度の幸せを見つけたのだ。嘘のない、等身大の幸せを。
スナック「あかつき」に残った京子と、夜道を行く正平。
二人の魂の形は、まだ互いの本当の輪郭を知らないまま、夜明け前の闇の中に漂っていた。
