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小説『夜明け前のボヘミアン・ラプソディ』第二章:ガラスの靴と安全靴

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 正平が店を出てから三十分後。スナック「あかつき」の空気は一変していた。
 先ほどまでの、音楽を通じた心地よい調和はもうない。代わりに店を満たしているのは、安っぽい紫煙と、ロレツの回らない男たちの怒声に近い笑い声だ。

「おい、京子ちゃんよぉ。氷、遅いんじゃないの?」

 カウンターの奥で、顔を赤黒くした六十代の客がグラスをコースターに叩きつけた。近所で不動産関係の仕事をしている常連客だが、酒癖の悪さは折り紙付きだ。

「申し訳ありません。すぐにお持ちしますね」

 京子は条件反射のように口角を上げ、氷の入ったペールを差し出した。
「…ったく、いい歳して気が利かねぇな。だから独り身なんだよ」
 男の言葉が、京子の胸の薄皮を鋭利な刃物のように切り裂く。
 隣に座っていた若い部下らしき男が、「部長、言い過ぎですよぉ」とへらへら笑いながらフォローを入れるが、その目もまた、京子を「深夜の安い労働力」として値踏みしているようだった。

 京子はバックヤードで新しいおしぼりを準備しながら、奥歯を強く噛み締めた。
 悔しさがないわけではない。惨めさがないわけでもない。
 けれど、彼女は自分の中で一つの論理を構築することで、この痛みに耐えていた。

(耐えることは、美しいことだ)と。

 彼女の脳裏には、いつか本で読んだ、戦時中の女性らの姿が浮かぶ。銃後の守り。欲しがりません勝つまでは。
 国難に殉じた先人たちの苦労に比べれば、酔っ払いの戯言など蚊に刺された程度のことだ。
 彼女にとって「接客」は、単なる労働ではなかった。それは一種の「滅私奉公」であり、わがままな他者に尽くすことで、日本人としての伝統的な美徳を体現しているという、倒錯した満足感でもあった。

「お待たせしました。おしぼり、熱いので気をつけてくださいね」
 席に戻った京子は、先ほど自分を侮辱した男に、慈母のような微笑みを向けた。
 それは客への愛ではない。
 理不尽を飲み込み、笑顔で場を収める自分自身への、歪んだ誇りだった。

 翌日の午後。
 正平は九段下の坂を登っていた。
 夏の強い日差しがアスファルトを焼き、セミの声が耳鳴りのように降り注ぐ。
 巨大な鳥居をくぐり、砂利道を踏みしめる。周囲には参拝客の姿も多いが、正平の足取りは彼らとは少し違う。
 彼は拝殿の前で足を止めない。二礼二拍手一礼をする人々を横目に、同じ敷地内にある建物――「遊就館」へと向かう。

 館内に入ると、外の暑さが嘘のように静謐な空気に包まれる。
 正平は展示室をゆっくりと回った。
 彼が見つめるのは、兵器のスペックでも、作戦の優劣でもない。ガラスケースの中に収められた、家族へ宛てた手紙や、遺品の万年筆だ。

「……字が、綺麗だな」
 誰に聞かせるでもなく呟く。

 自分よりもずっと若い青年たちが、死を前にして綴った文字。そこには、国への忠誠以上に、故郷の父母や恋人を思う切実な「個」の叫びが滲んでいるように思えた。

 正平は、ここに来てみて、胸が締め付けられるような思いにとらわれた。
 彼らを死なせたのは誰か。
 それは、敵国であるのかも知れない。と同時に、彼ら「個人」よりも「組織」の論理を優先させた、この国のシステムそのものではなかったか。伝え聞く所によると実際、戦地に赴く過程で、また戦地での、それぞれの余りにも劣悪な環境の中で、集団感染の伝染病で、或いは飢えで、また、上が立てる作戦のまずさによる過酷な行軍を強いられた事により、敵と戦わずして命を落とさせられた者も、意外と、随分多いらしい。
 かつて企業戦士として働き、組織の論理に従って家庭を犠牲にした自分自身の過去が、重い悔恨となってのしかかる。だからこそ、彼はここに来る。死者への追悼ではない。組織に殺された「個」への、痛みにも似た共感を確認するために。

 一通り展示を見終え、外に出る。
 拝殿の方角を一瞥する。
 手を合わせることはしない。あそこで祈ることは、彼らを死へ追いやったシステムをも「英霊」という存在として肯定することになる気がして、どうしてもできないのだ。

 休憩所のベンチに腰を下ろす。
 すぐ近くに、おみくじの社務所が見えた。若いカップルが「やった、大吉だ!」「私も!」とはしゃいでいる。
 正平は以前、聞いたことがあった。ここのおみくじには「凶」が入っていないのだと。…これ自体は、実は、本当かどうかはよく分からないのだが。
 参拝に来た遺族や崇敬者に、不吉な思いをさせないための配慮だという説を聞いた事がある。
(優しいことだ)
 正平は皮肉な笑みを浮かべ、鞄からスマホを取り出した。
 青空文庫のサイトの中にある、夏目漱石。『私の個人主義』。
 本文を追って行く。
『自己本位という言葉は、自分の勝手という意味ではありません』
 凶のないおみくじなど、人生の真実ではない。人生には凶もあれば、大凶もある。自分はそれを見て見ぬふりをする優しさよりも、不都合な現実と向き合いながら、自分の足で立つ孤独を選びたい。そう思った。

 蝉時雨が降り注ぐ九段下のベンチで、正平はスマホを静かに繰る。
 同時刻。
 西日が差し込むアパートの一室で、京子は泥のように眠っていた。
 枕元にはアイフォン。画面にはSNSのタイムラインが表示されたままになっている。そこには「日本を愛する者たち」の威勢のいい言葉が並び、京子の孤独な寝息を見守っていた。

 ガラスケースの中の遺書を見つめる男と、ガラスの靴を履く夢を見ながら安全靴で泥道を歩く女。
 二人の「愛国」の定義は、まだ遠く離れた場所にあった。
 だが、その距離が急速に縮まる――あるいは衝突する、その瞬間が、すぐそこまで迫っていた。

 次週、八月十五日がやってくる。

(第三章へ続く)