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小説『夜明け前のボヘミアン・ラプソディ』第三章:「伝統」という名の地雷

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 八月十四日。

 お盆の只中にある東京は、湿った熱気に包まれていた。
 スナック「あかつき」の客入りはまばらだった。常連たちの多くは帰省しているか、家族サービスに勤しんでいるのだろう。
 カウンターの端には正平。その横で京子が水割りのグラスを拭いている。
 いつもならカラオケの選曲で盛り上がっている時間だが、今夜の店内には、壁に掛けられたテレビの音だけが低く響いていた。

『明日は七十七回目の終戦の日です。総理は……』

 ニュースキャスターが淡々とした口調で、靖国神社の参拝問題や、各政党のコメントを読み上げている。
 正平はグラスを傾けながら、ぼんやりと画面を眺めていた。
 彼は、今日も夏目漱石をスマホの青空文庫で読んでいた。世間が「英霊」や「平和」といった大きな言葉で騒がしくなるこの時期、彼は漱石の説く「自己本位」という孤独なシェルターに逃げ込みたくなるのだ。

「……難しい顔してるわね、正平さん」
 京子が氷を足しながら声をかけた。
「ああ、いや。毎年同じような議論をしているなと思ってね」
 正平が苦笑いで誤魔化そうとした時、テレビ画面には、神社の境内でインタビューに答える高齢者や若者たちの姿が映し出された。『感謝の誠を捧げる』『国の礎』といった言葉が流れる。

 京子はふと、手元のグラスを磨く手を止めて、画面を見上げた。
 その瞳には、どこか遠いものを見るような、すがるような光が宿っていた。
「騒ぐことなんてないのにね」
 京子が独り言のように呟いた。
「誰がなんと言おうと、国のための英雄に感謝するのは、この国の伝統よね」

 その言葉が突然、正平の心を瞬間冷却に追いこんだ。
 カラン、と正平がグラスを置く音が、やけに大きく響いた。

「……伝統?」
 正平の声は低かった。
 京子の言葉に含まれた「伝統」という響きが、正平の古傷を刺激したのだ。
 かつて彼が身を粉にして働いた会社でも、その言葉は呪いのように使われていた。
『滅私奉公はわが社の伝統だ』
『上司の命令に従うのが日本人の美徳だ』。
その「伝統」という美名の下で、思考は停止させられ、彼は家庭を顧みる時間を奪われ、結果として妻とすれ違い、離婚に至った。
 彼にとって「伝統」とは、個人の幸福を圧殺するシステムの方便に聞こえたのだ。

「京子さん。それは少し、思考停止じゃないかな」
 酔いも手伝って、正平はつい、いつもなら口にしないはずの「正論」とやらを吐いてしまった。
「え?」
 京子が怪訝な顔を向ける。
「感謝するなとは言わない。だが、『伝統だから』という理由だけで、その死の意味を問うことをやめてしまえば、それは過去の過ちを肯定することになる。死を美化して動員した装置も含めて『伝統』と呼ぶなら、僕はそれを認められないな」

 正平は、理知的であろうと努めていた。あくまで一般論として、歴史への向き合い方を語ったつもりだった。
 だが、京子にとっては違った。
 彼女にとっての「伝統」とは、政治的な主張以前に、この苦しい生活を支える唯一の「背骨」だった。
 親もおらず、夫もおらず、子供も親戚もいない。深夜の客に侮辱され、安い時給で働く日々。そんな自分が「惨めな中年女性」ではなく「誇りある日本人」でいられるのは、連綿と続く歴史や伝統という大きな物語の一部であると信じているからだ。
 それを否定されることは、彼女の存在意義そのものを否定されることにも等しかった。

 京子の表情から、それまでの愛想笑いが突然消えた。
「……正平さんみたいな人には、わからないのよ」
 その声は震えていた。
「思考停止?そんな偉そうな言葉で片付けないで。私のような人が、どんな思いで毎日を生きているか。何に祈って、心を保っているか。あなたみたいに、賢い本を読んで、安全な場所から批判している人には、絶対わからない」

 彼女の反論は、論理ではなく感情の叫びだった。
 しかし、正平の「リベラルな知性」は、その叫びの奥にある「寂しさ」を読み取るには、あまりに傲慢だった。彼は自分が「蒙昧な相手を啓蒙してやらねば」という罠に陥っていることに気づかなかった。

「感情論で語るから、本質が見えなくなるんだ。君が言う伝統が、君自身を縛り付けていることに気づくべきだ」
「縛られて何が悪いの!」
 京子がカウンターを強く拭いた。
「自由、自由って言って、それでみんな幸せになったの?絆もバラバラになって、みんな自分のことばかり。私はね、伝統の中で、ご先祖様と繋がっていると感じる時だけが、一人じゃないって思えるのよ。それを否定する権利が、あなたにあるの?」

 正平は言葉に詰まった。
 彼女の目には涙が溜まっていた。それは怒りの涙であると同時に、正平に対する失望の涙でもあった。
 趣味や音楽で通じ合っていたはずの相手が、自分の最も柔らかい部分を、土足で踏みにじったことへの悲しみ。

 正平はハッとした。
 自分は今、漱石の『個人主義』を気取りながら、目の前の一人の人間の生身の個人の心を殺したのではないか。
 だが、一度吐いた言葉は戻らない。振り上げた正義とやらの拳を、どう下ろしていいかわからなかった。

「……すまない。言い過ぎた」
 正平は短く謝罪し、財布から千円札を数枚取り出してカウンターに置いた。
 その謝罪の様なものもまた、京子には冷たく響いた。議論を打ち切り、逃げ出すための言葉にしか聞こえなかったからだ。

「今日は、歌う気分じゃないな」
 正平は逃げるように立ち上がった。
「そうですね。私も、今日は歌えそうにありません」
 京子は顔を背けたまま、事務的に答えた。

 ドアが開く。
 生ぬるい夜風が入り込み、店内の冷房の空気を乱した。
 正平の背中が闇に消え、ドアが閉まる。

 残された京子は、誰もいない店内で、テレビのニュース音だけを聞いていた。
 画面の中では、まだ議論が続いている。
 京子は震える手で、自分のアイフォンの画面をつけた。そこにはいつものSNSの画面がある。
 彼女は迷わず、今の出来事を書き込んだ。
『伝統を馬鹿にする男に説教された。悔しい。私たち日本人の誇りを踏みにじらないで』
 すぐに「いいね💖」が付き始める。顔の見えない無数の同志たちからの称賛。
 だが、その通知音は、先ほどまで居た正平と前回までいつも一緒に歌っていた「ボヘミアン・ラプソディ」のハーモニーに比べれば、あまりにも電子音じみていて、冷たかった。

 二人の間にあった「音楽」という架け橋は、思想という名の濁流に流され、脆くも崩れ去った。

(第四章に続く)