「学校」という名の管理システムからの解放 —— 日本人が「個」の誇りを取り戻すための教育論(全4回)第1回:現状分析編 学校は「教育機関」ではない。「管理機関」であるという不都合な真実
多くの人々は疑いもせず信じ込んでいる。「学校」とは「教育機関」であり、そこで行われることは子どもたちのための「教育」である、と。 しかし、私はあえて断言する。 現在の日本の学校において、表向き語られるような教育的役割や、児童生徒一人ひとりへの効果はほとんどない。そこにある実態は「教育」ではなく、徹底された「管理」である。
今回は、なぜ日本の学校が本来の目的を失くし、単なる管理システムへと成り下がってしまったのか。その構造的な欠陥について、私なりの分析を述べたい。
「画一的教育」は、過去の遺物である
誤解のないように言っておくが、私は過去の全ての学校教育を否定するつもりはない。 かつて、テレビやラジオが普及し始め、高度経済成長期へと向かう時代までの期間において、学校が行っていた「画一的な一斉授業」は、確かに正解だった。
当時はまだインターネットもパソコンもスマホも当然のように無く、知識を得る手段は限られていた。「同じ教室に人を集め、同じ教科書を開き、同じペースで知識を注入する」。技術が未発達だったあの時代において、それ以外の方法は物理的に不可能であり、国全体の知識レベルを底上げするためには、それが最も「効率的」であり、「そうするしかなかった」のである。
しかし、今はどうだ。 コンピューターシステムやインターネットが発達し、あらゆる情報に瞬時にアクセスできる現代において、明治や昭和の過去と同じやり方を続けることに何の意味があるのだろうか?本来であれば、文明の利器を教育に反映させ、一人ひとりの個性や特性、進度や希望に合わせた「個の尊重」こそが可能になっているべきだ。
時代は変わり、手段も進化した。にもかかわらず、学校というシステムだけが、まるで思考停止したかのように、旧態依然とした「定型業務」を日々無反省に繰り返している。それは時代が移り変わって現場教員の労働負担の過酷化が以前より随分進行しているのに、それに対して時代や技術の進歩を反映した現代の改善策が何も取られずに、しかもそれ(現場教員の労働負担の過酷化)を反映した正当な給与も支払われない(給特法)などで現場の疲弊につながっていることと併せて、この仕組みや制度の放置は怠慢以外の何物でもない。

「先生」という名の権威が生む、恐怖による支配
このシステムの中で、現場に立つ「教師」たちの在り方も歪められている。
もちろん、現場には教育者としての高い志を持ち、誠実に児童生徒一人ひとりと向き合おうと努力している教員も中には多数存在する。そのこと自体は否定しない。 だが、現実はどうだろうか。「教育」という美名の下で、実際に行われているのは「効率的な『支配』」ではないか。
大人と子どもという、ただでさえ圧倒的な力関係の差がある中で、「先生」という肩書きは絶対的な権威となる。これを虎の威として借り、児童生徒を「恐怖」で支配する。「言うことを聞かないと内申点に響くぞ」「規則を守れないやつはダメな人間だ」 そうやって脅迫めいた態度で生徒を萎縮させ、コントロールする教員が少なからず存在する。
なぜか。その方が、教員にとって「楽」だからだ。
一人ひとりの「なぜ?」に向き合い、個性を伸ばす対話をするよりも、恐怖によって一律に右向け右をさせた方が、管理する側にとっては遥かに「業務効率」が良い。 これはもはや教育ではない。ただの「業務処理」であり、子どもたちの人権を無視した管理行為に他ならない。
現代における「教育の敗北」
本来、教育とは、その子がその子らしく、人間として固有の価値を持って成長することを助けるものであるはずだ。 しかし、今の学校現場では、子どもたちが個々の人間として「一人ひとり違う」という実に当たり前の事実が、管理の邪魔になるノイズとして処理されている。
個性を無視し、画一的な枠に押し込めること。 それを「教育」と偽り続けること。
この欺瞞に満ちたシステムの中で、子どもたちは「自分」という存在の価値を見失って行き、やがてそのまま大人になって行き、今の日本社会が形作られている。 次回は、この管理システムが子どもたちの精神にどのような影響を与え、あの忌まわしい「いじめ」という現象を必然的に生み出しているのか。その残酷な構造について掘り下げていきたい。

