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「学校」という名の管理システムからの解放 —— 日本人が「個」の誇りを取り戻すための教育論 第2回:構造的悲劇編(いじめ論)「いじめ」の正体は、いじめる子どもの罪ではなく、学校の「画一化システム」が生んだ必然の悲劇である

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 前回、私は学校が「教育」ではなく「管理」のための機関になり果てていると述べた。 今回は、その「管理システム」が子どもたちの精神にどのような歪みをもたらし、「いじめ」と呼ばれる凄惨な現象を引き起こしているのか、その構造的な正体を暴いていきたい。

 世間の大人たちは、いじめを「子ども同士の喧嘩」や「個人の性格の問題」として片付けようとする。
「みんな仲良くしましょう」
「相手の気持ちを考えましょう」
…そんな綺麗ごとの説教で解決するはずがない。
 なぜなら、いじめの真の原因は子どもたちの中にあるのではなく、大人が作り上げた「学校」というシステムの欠陥そのものにあるからだ。


「普通」という猛毒

 日本の学校教育と呼ばれるものにおいて、最も重視されているのは「画一性」である。
「みんなと同じ」ことができるのが優秀であり、「みんなと同じ」姿であることが正しいとされる。
 そこでは、「個性」や「違い」は称賛されるべきものではなく、管理を乱すノイズとして扱われる。

 この環境下で、子どもたちはどうなるか。
 彼ら彼女らは、奇妙な思考の過程を経て、自らを洗脳していく。
「皆と同じ姿こそが普通であり、正義だ」と。
 大多数の児童生徒は、無意識のうちに「自分自身の個性」を自らの手で殺すようになる。
 他人と自分を合わせ、突出した部分を削り取り、個性のない人間へと自らを貶めていく。
 本来、一人ひとり違って当たり前であり、その違いにこそそれぞれの個人の存在価値があるにもかかわらず、彼ら彼女らは自らの可能性の芽を自分で摘み、「価値のない均質な人間」へと自ら成り下がっていくのだ。

「異端」への迫害は、彼らにとっての「正義」

 そうして「個性を殺して我慢している」大多数の子どもたちにとって、個性を持ち続ける者、あるいはその個人に特有の事情で他と違わざるを得ない者は、どう映るか。
 それは羨望の対象ではなく、「異端」であり「許されざる存在」となる。

「私は/俺は、こんなに我慢して『普通』に合わせているのに、あいつだけ違うのは許せない」

 ここにおいて、いじめは単なる嫌がらせではなく、集団の規律を乱す者を罰する「制裁(サンクション)」という名目にすり替わる。
 加害側の児童生徒は、その瞬間、
「自分こそが正しい」
「違うあいつが悪い」
本気で思い込み、そして思い違いをしている。
 だからこそ、心理的、時には身体的な迫害を、罪悪感なく、むしろ正義感すら持ってエスカレートさせていくのだ。
 これは、かつての魔女狩り隣組の監視システムと何ら変わらない、組織的な粛清の構造である。

大人たちの欺瞞と、真の被害者

 この残酷な構造に対し、教師や親の多くは「いじめ」という言葉の枠に事態を矮小化し、表面的な解決を図ろうとする。
「どっちも悪い」
「仲直りしよう」
…などという言葉は、炎にガソリンを撒くだけだ。
 なぜなら、彼らは火種がどこにあるかを見誤っているからだ。

 真の加害者は誰か。
 それは、実は、いじめた子どもではない。
 もちろん、いじめられた子どもでもあり得ない。
「人間を管理すること」を目的に、個性の存在しない「画一性」を子どもたちに押し付け続けている「大人のフリをした大人たち」、教育者のフリをした管理者たち、そしてこの国の文部科学省配下のシステムそのものである。

 いじめを行う側も、行われる側も、本来ならば個々の独立した人間として尊重されるべき存在だ。
 しかし、学校という閉鎖空間で、人格を無視した「管理」をされ続けることで、彼ら彼女らは精神を歪められてしまった。
 その意味において、加害者として指弾される子どもたちも含め、このシステムに関わる全ての児童生徒は、「教育現場における、教育の名のもとの管理」という巨大な暴力の被害者なのである。

(次の回へ続く)