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【小説『パンドラ・ファイル』その6】愛を囁く翻訳機(トランスレーター) ~奪われた妻と700万の恋~【第一部:妻のスマホという密室】第2章:処方箋は「絶望」

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 依頼人の田島が帰った後、剣崎は窓のブラインドを下ろし、デスクの上のPCモニターに向かった。
 普段は静かな隠居生活を送るための書斎が、一瞬にして作戦指令室へと変わる。

 剣崎は、特定のプロキシを経由し、暗号化されたチャットルームにアクセスした。
 国際高知能連盟『ノウス(NOUS)』
 全人口の上位2%のIQを持つ者だけが入会できるこの組織の中に、さらに極秘のフォーラム『パンドラ』が存在する。そこは、社会の悪意バグを論理と技術でデバッグすることを愉しみとする、変わり者たちの秘密基地だ。

 剣崎が『パンドラ』への招集コードを入力すると、三つのアイコンが即座に点灯した。

Bit(ビット):
『やあ、Axiomアクシオム。今日は珍しく昼間だね。ジムは休み?』
 ネオンカラーのアイコン。Bit
 二十代の天才ホワイトハッカー。デジタル空間において、彼に開けられない扉はない。

Abacus(アバカス):
『……田島という男が泣きついてきたのか? お前のことだ、古い縁を断りきれなかったんだろう』
 古いそろばんのアイコン。Abacus
 元国税局の調査官。金の流れから犯罪の痕跡を嗅ぎつける、老練な猟犬だ。

Madame_Rose(マダム・ローズ):
『あら、部屋に漂う残り香……。これは「悲恋」の匂いね』
 深紅の薔薇のアイコン。Madame Rose
 元・銀座の伝説的ママにして、臨床心理学の博士号を持つメンタリスト。人の心の嘘と真実を読み解く魔女だ。

 そして、彼らを束ねるリーダー、コードネームAxiom(アクシオム・公理)こと剣崎は、マイクに向かって静かに告げた。
「その通りだ、ローズ。今回の敵は、これまでの投資詐欺や霊感商法とは違う。ターゲットの『恋心』を人質に取っている」

 剣崎は、田島の妻・美津子みつこがやり取りしている相手、「国連医師・デイビッド」のプロフィール画像と、LINEのスクリーンショットを共有した。

「典型的な国際ロマンス詐欺だ。被害額は七百万。だが問題は、被害者である美津子さんが、夫を敵視し、詐欺師を英雄だと信じ込んでいることだ」

Bit:
『うわ、ベタな写真だね。画像検索かけたよ。……はい、ビンゴ。この写真はドイツ在住の実在するモデルのインスタグラムから盗用されたものだね。本人は国連とも医師とも関係ない』

Abacus:
『金の流れも洗ったぞ。送金先は国内の個人名義口座だ。おそらく「荷受け」のバイトで雇われた「飛ばし」口座だろう。そこから暗号資産に換えられて海外へ消えている。……回収は絶望的だ』

 事実関係はすぐに割れた。
 写真は偽物。金は詐欺師の手に渡っている。
 ここまでは論理ロジックで説明できる。
 だが、剣崎はローズに問いかけた。

「ローズ。夫の田島君は、これらの証拠を妻に突きつけて説得しようとしたそうだ。だが、妻は聞く耳を持たず、むしろ『彼への愛を試されている』と頑なになってしまった。……どうすればいい?」

 ローズが静かに答える。
Madame_Rose:
『それは「バックファイア効果」ね。人は、自分の信じている信念を否定されると、防衛本能が働いて、逆にその信念を強固にしてしまうの』

「北風と太陽の、北風になってしまったわけか」

Madame_Rose:
『ええ。今の彼女にとって、夫も警察も「二人の愛を引き裂く悪役ヒール」よ。反対されればされるほど、彼女は悲劇のヒロインとして燃え上がる。これを「ロミオとジュリエット効果」とも言うわ』

 ローズは続けた。
『彼女の脳内は今、ドーパミンで満たされている。薬物中毒と同じよ。正論や論理は、中毒者には届かない。……彼女を救う方法は、たった一つしかないわ』

「それは?」

Madame_Rose:
『「処方箋」として、致死量の「絶望」を与えることよ』

 モニター越しに、ローズの冷徹かつ哀れみを含んだ声が響く。

『彼女が信じているのは「私だけが彼に選ばれた」という特別感よ。
 だから、証明してあげるの。「あなたは特別じゃない。その他大勢のカモの一匹に過ぎない」という残酷な事実をね。
 説得するんじゃない。彼女の目で見せて、彼女自身に恋を冷めさせるのよ』

 剣崎は深く息を吐いた。
 それは、田島にとっても、彼の妻にとっても、あまりに残酷なショック療法だ。特に妻の、この立場でのショックは計り知れないだろう。
 だが、壊死しかけた患部を切り落とさなければ、家族という命そのものが失われる。

「……わかった。その作戦でいこう」
 剣崎はBitに指示を出した。
「Bit。敵の懐に飛び込め。この『デイビッド』とやらが、どこの誰で、同時に何人の女性に愛を囁いているのか……その尻尾を掴んでくれ」

Bit:
『了解。偽の恋人のスマホ、ハッキングさせてもらうよ。……愛の言葉の裏にある、汚いソースコードを暴いてやる』

 剣崎はモニターを見つめた。
 画面の中の偽の医師は、爽やかな笑顔を浮かべている。
 その笑顔が、どれほどの女性の心を弄び、家庭を破壊してきたのか。
 剣崎の胸に、静かな怒りの炎が灯った。

(第3章へ続く)