見出し画像

妻は『デイビッド…』とかいう、シリアに駐屯の国連軍の整形外科医に夢中・・・【小説】63歳の知性が最新詐欺を完全論破する【パンドラ・ファイル・その6】愛を囁く翻訳機(トランスレーター) ~奪われた妻と700万円の恋~(全6章)【第一部:妻のスマホという密室】第1章:遠い国の恋人

 東京・港区。

 古びているが手入れの行き届いた雑居ビルの一室に、剣崎宗一郎けんざきそういちろうの「隠れ家」はある。
 ドアには『K・コンサルティング』という小さなプレートが掲げられているが、ここは商売のための事務所ではない。
 現役時代に築いた資産を管理するためのプライベート・オフィスであり、悠々自適なリタイア生活を送る剣崎が、誰にも邪魔されずに読書やコーヒーを楽しむための書斎だ。

 普段なら、ここには静寂とコーヒーの香りしか漂っていないはずだった。
 だが今日、その静寂は一人の来訪者によって破られていた。

「……そうですか。奥様が、七百万円を」
 剣崎は、淹れたてのコーヒーを客人の前に置いた。

 ソファに深く沈み込んでいる男は、田島たじまと名乗った。
 剣崎が現役時代に再建を手掛けた企業の元部下であり、その縁で「どうしても」と泣きつかれて、例外的に招き入れたのだ。
 大手メーカーに勤める五十二歳の課長職。仕立ての良いスーツを着ているが、その背中は丸まり、目には深いくまが刻まれている。

「ええ。老後のためにと、二人でコツコツ貯めてきた定期預金でした。それを、妻は……解約して、送金してしまったんです」
 田島は、震える手でスマートフォンを取り出し、妻とのLINEのやり取りを剣崎に見せた。

『お願い、邪魔しないで! デイビッドは今、戦地で命を懸けているの!』
『私の幸せがそんなに憎いの!? あなたなんて他人よ!』

 画面に並ぶ妻からの罵倒。
 三十年連れ添った夫婦の会話とは到底思えない、敵意に満ちた言葉の数々。

「相手の男の名は『デイビッド・ウィリアムズ』。シリアに駐屯している国連軍の整形外科医だそうです」
 田島が力なく説明する。
「戦地で怪我をした子供たちを救っている英雄だと。……任期が終われば日本に来て、私と結婚して一緒に暮らしたいと言っているそうです」

 ――出たな。
 剣崎は内心で溜息をついた。
 「戦地の医師」「軍人」「国連職員」。
 これらは国際ロマンス詐欺の定型文テンプレートだ。
 高潔な職業、命の危険、そして日本への移住という甘い未来。
 これらを組み合わせて、平凡な日常に飽き足りない女性の心の隙間に入り込む。

「田島さん。警察には?」
「行きました。ですが、妻本人が『これは詐欺じゃない、私が彼に支援したくて送ったの』と言い張っていて……。被害届すら出せないんです。銀行も、本人の意思で送金した以上は止められないと」

 剣崎は窓の外を見た。
 六十三歳。
 かつては凄腕のシステムエンジニアとして、また経営コンサルタントとして、論理ロジックを武器に生きてきた。
 だが、引退した今の彼には、もう一つの顔がある。
 全人口の上位2%のIQ(知能指数)を持つ者だけが入会できる国際グループ『ノウス(NOUS)』、その中でもさらに極秘かつ自主的に活動する自警団的組織『パンドラ』のリーダー、コードネーム「Axiomアクシオム(公理)」としての顔だ。

 これまで剣崎とパンドラは、様々な詐欺師たちを葬ってきた。
 「絶対に儲かる」と豪語する投資詐欺師。
 「神の声」を偽装する霊感商法の教祖。
 「一億円の契約金」を食い物にする代理人詐欺。
 そして、「某国の国家プロジェクト」をかたる仮想通貨詐欺師、など。

 奴らは皆、人間の「欲」や「恐怖」を利用した。だからこそ、論理的な証拠を突きつけ、その嘘を暴けば、被害者は目を覚ました。
 だが、今回の敵は違う。

「……厄介ですね」
 剣崎は呟いた。
「奥様は今、金銭欲で動いているのではありません。『愛』という、最も強力で、論理が通じない感情に支配されています」

「私が『それは詐欺だ』と言えば言うほど、妻は頑なになるんです。『二人の愛を試す試練だ』と言って……」
 田島が頭を抱える。
「金はもういいんです。七百万は諦めます。でも……このままでは、妻の心が殺されてしまう。家庭が壊れてしまう。剣崎さん、どうか、妻の目を覚まさせてください」

 これは「北風と太陽」の寓話よりも難しい。
 北風(正論)を吹かせれば、旅人(妻)はコート(詐欺師との絆)を固く握りしめるだけだ。
 かといって、太陽のように暖かく見守れば、その間に財産を骨までしゃぶり尽くされる。

「引き受けましょう」
 剣崎は静かに言った。
「ただし、私が手掛けたこれまでの事件のようにはいきません。奥様を救うための特効薬は、『真実』という名の猛毒になるかもしれません。……それでも、覚悟はありますか?」

「……お願いします。妻を取り戻せるなら、どんなことでも」

 依頼人の悲痛な決意を受け取り、剣崎はPCの電源を入れた。
 暗号化された回線を開き、いつもの賢者たちを呼び出す。
 この「愛」という名の強固な幻想を打ち砕くには、心理学とテクノロジー、双方のスペシャリストの力が必要だ。

「メティス(※注:剣崎の自分専用AIシステムの愛称)。……『パンドラ』に招集をかけろ」

第2章へ続く