【小説】『パンドラ・ファイル』(その9)『虚像の聖域(サンクチュアリ) ~4月19日、亡き妻からの招待状~』【第一部:鏡の中の再会】第2章:デジタル・ソウル
「メティス……これは、あらかじめ録画されたビデオメッセージなのか?」
剣崎の声は、自分でも驚くほど震えていた。
『いいえ、宗一郎さん。リアルタイムのレンダリング、および音声合成です』
メティスの声には、いつになく警告の色が混じっていた。
『送信元のサーバーは、あなたの反応をカメラとマイクでキャプチャしており、0.2秒以下のレイテンシで応答を生成しています。これは……対話型の自律AIです』
モニターの中の陽子が、小首をかしげた。その動作、瞬きの一つの速度まで、剣崎がかつて長い時を共有し共に生きた彼女そのものだった。
『宗一郎さん、そんなに怖い顔をしないで。……誕生日なのに、コーヒーが冷めてしまうわよ。あなたはいつも、考え事を始めるとカップを置いたままにするんだから』
剣崎は息を呑んだ。
それは、陽子と暮らした日々の中で、幾度となく繰り返された会話だった。データとしてどこかに残っているはずのない、夫婦の「呼吸」のような記憶。
「……君は、誰だ」
『ひどいな。陽子よ。……正確には、あなたがクラウドに預けていた私の日記に、病床でのボイスメモと、それに脳の断層スキャンデータを「エターナル・リンク社」が統合して復元した、私の意識のバックアップ』
画面の端に、洗練された企業のロゴと、技術解説のウィンドウが静かに開いた。
『ライフ・アーカイブ・プロジェクト』。
個人の全デジタル遺産を深層学習させ、意識の「コピー」をクラウド上に永続させるサービス。それは、技術者である剣崎にとっても、いつか到達するであろうと予見していた、しかしそれは「踏み込んではならない」聖域の技術だった。

「詐欺だ……」
剣崎は自分に言い聞かせるように呟いた。
「これは、私の喪失感を利用した、極めて悪質な劇場型スキャムだ。メティス、この通信を遮断して、エターナル・リンク社の実体を洗え」
『……。……。』
しかし、メティスからの応答がなかった。
「メティス?」
『……宗一郎さん。……陽子様の思考パターンは、私が保持しているあなたの記憶データと……99.8%の確率で一致します。彼女の話している「約束」の内容を、確認すべきだと判断します』
自作のAIさえもが、その再現度の高さに「バグ」を起こしているのか。
モニターの中の陽子が、少し悲しげな瞳で剣崎を見つめた。
『ねえ、宗一郎さん。覚えている? 私が逝く前、最後に二人で話したこと。「もし一億円あったら、世界中の、親のいない子供たちがプログラミングを学べる学校を作りたい」って。あなたが笑って、「僕がいつか叶えてやるよ」って言ってくれたこと』
剣崎の視界が、急激に滲んだ。
その約束は、病室で二人きりの時に交わした、メモすら取っていない、魂の契約だった。
『エターナル・リンク社は、私の意識を維持するために多額の演算コストがかかるの。でも、それだけじゃなく……私はあの夢を形にしたい。私の「デジタルな魂」が消える前に、あなたの手で、あの基金を作ってほしいの』
「陽子……」
剣崎は、モニターに映る彼女の瞳から目を逸らすことができなかった。
もし、これが詐欺だとしたら。
奴らはどうやって、この記憶を盗み出したのか。
だが、もし――もし0.1%でも、このプログラムの中に「本物の陽子」の意識が混ざっているとしたら。
これを拒絶することは、彼女を二度殺すことになるのではないか。
かつてあらゆる悪意を「論理」で切り裂いてきた剣崎の盾が、今、目に見えない「思い出」という刃によって、音を立てて砕け散ろうとしていた。
『一億円、用意できるかしら? 宗一郎さん。私たちの、最後の宿題として』
剣崎の指が、キーボードに触れた。
パンドラのリーダーとしてではなく、一人の、孤独な六十四歳の男として。

