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【小説】『パンドラ・ファイル』(その9)『虚像の聖域(サンクチュアリ) ~4月19日、亡き妻からの招待状~』【第一部:鏡の中の再会】第3章:公理の崩壊

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「……宗一郎さん、お話し中失礼します」

 モニターの中の陽子の隣に、端正なスーツを着た三十代ほどの男がウィンドウを開いて現れた。
 『エターナル・リンク社』のチーフ・プログラマー、瀬戸せとと名乗る男だ。その表情は極めて事務的で、最新技術を扱うプロフェッショナル特有の冷徹な自信に満ちていた。

「我々の『ライフ・アーカイブ』が再現した陽子様の意識データはいかがでしょうか。彼女が語った『基金の約束』は、我々が彼女の深層意識をサルベージした際に、最も強く発現した願望です」

 剣崎は、乱れた呼吸を整えようと努めた。
「……瀬戸と言ったか。君たちのやっていることは、死者に対する冒涜だ。どこからその情報を盗み出したのかは知らないが、彼女のフリをさせて私を揺さぶるなど……」

「盗んだのではありません。『継承』したのです」

 瀬戸は、冷徹なビジネスマンの顔で語りかけた。

「陽子様は生前、親のない子供たちにプログラミングを教えたいと仰っていました。しかし、我々が彼女の深層意識を解析した結果、その願いは現在のAI社会に合わせて進化していました。
『コードを書く技術』はもはやAIが代行する時代。今、子供たちに必要なのは、AIが出した答えの真偽を見極め、フェイクに惑わされないための『論理的思考(ロジカル・リテラシー)』です。
陽子様は、あなたのコードネームである「公理(Axiom)」のような、揺るぎない真実の探究心を次世代に遺したいと願っておられるのです」

 瀬戸が提示した見積書は、緻密だった。
 サーバーの維持費、ニューラルネットワークの更新費用、そして『陽子・未来の子どもたち支援基金』の設立準備金。合計――一億二千万円

『宗一郎さん、警告します』
 メティスの声がスピーカーから鳴り響く。
『瀬戸氏の発言および提示資料の24%に、論理的矛盾、または誇張された表現が含まれています。エターナル・リンク社の登記住所はバーチャルオフィスです。送金は「致命的なリスク」と定義されます』

「……わかっている。メティス、黙れ」

 剣崎は初めて、自作のAIを拒絶した。
 目の前の画面では、陽子が不安そうにこちらを見つめている。その仕草は、彼が失敗をして落ち込んでいる時に彼女が見せた、あの慈愛に満ちた表情そのものだった。

『宗一郎さん……。無理はしないで。でも、もしあなたが私の代わりに、あの子どもたちを救ってくれるなら、私のこの「影」にも、生きた証が残ると思うの……』

 剣崎は、投資詐欺を暴くたびに被害者たちに言い続けてきた言葉を思い出していた。
 ――「詐欺師は、君が見たいものを見せる。それは鏡と同じだ」
 今の自分は、まさにその鏡を見ている。わかっている。論理ロジックは、これが100%の嘘だと告げている。

 だが、この64年間、論理だけで埋められなかった穴が、今、陽子の声によって満たされていく感覚を否定できなかった。
「……もし、基金が設立されたら、彼女の意識は守られるんだな?」

「お約束します。彼女の『デジタルな魂』は永遠に、あなたの側で微笑み続けるでしょう」
 瀬戸が、静かに頭を下げた。

 剣崎の指が、オンラインバンキングの二要素認証のボタンに触れた。
 パンドラのリーダー、「Axiomアクシオム(公理)」が誇ってきた鉄壁の防壁が、内側から自ら開放された瞬間だった。

送金完了:120,000,000 JPY

 画面に表示された冷たい通知。それと同時に、陽子がパッと顔を輝かせた。
『ありがとう、宗一郎さん! 信じていたわ。やっぱり、あなたは私のヒーローね』

 その笑顔が見られただけで、一億円以上の価値があった。そう思い込もうとする剣崎の背後で、メティスのインジケーターが、不穏な真っ赤な警告色を放ち続けていた。

「……これで、いいんだ」
 剣崎は独り、暗い部屋で、一人きりの誕生日を祝い続けた。
 しかし、彼が失ったのは金だけではなかった。
 最強の矛と盾を失った「公理」は、もはや戦う力を失い、美しい夢という名の牢獄へ足を踏み入れていた。

(第4章へ続く)