【64歳剣崎宗一郎の詐欺撲滅小説シリーズ】『パンドラ・ファイル』(その11)『見えない支配者(ゴースト・ペアレント) ~親という名のシステム~』【第三部:愛という名の解毒】第6章(最終章):境界線の向こう側
リビングを包んでいた支配の空気が、驚くほど静かに霧散していくのを感じた。
節子は床に座り込んだまま、ただ静かに涙を流している。それは支配欲が挫かれた悔しさではなく、自分自身が息子に向けていた執着という名の「毒」の正体に気づいた、深い諦念に近いものだった。
「お母ちゃん」
悟が静かに歩み寄り、一歩の距離を保って立った。
「……もう、干渉しないでほしい。監視もしないで。僕はもう、お母ちゃんの操り人形とは違う。……一人の人間として、自分の人生を歩く」
かつてなら、母はすかさず「恩知らず!」と叫び、罪悪感を煽っていただろう。だが今の彼女に、その言葉を紡ぐ力は残っていなかった。
「……わかったわ。……ごめんなさいね、悟」
かすれた声で、節子が初めて自分以外の他者へ、本当の意味での謝罪を口にした。
剣崎は、二人の間に引かれた目に見えない「境界線」を確信した。
親子であっても、別の人間だ。
その線を超えて支配しようとすれば、必ず歪みが生まれる。
今回はそれが、最新の通信技術によって増幅されていたに過ぎない。
「Bit、Rose、Abacus。作戦終了だ」
剣崎はインカムに告げた。
Bit(ビット):
『了解! 完璧なデバッグ作業だったね。これで親子のシステムは正常に再起動するはずさ』
Madame_Rose(マダム・ローズ):
『ええ。でも、ここからが本当の始まりよ。……このお母さんと息子さんが自力で歩き続けるかどうかは、それぞれの力に委ねられているわ』
Abacus(アバカス):
『……次はもう少し、金の匂いがする事件を頼むぞ。今回は心臓に悪い』
剣崎は苦笑し、通信を切った。
パンドラの面々もまた、それぞれの日常に戻っていく。
彼らにとって剣崎はリーダーだが、彼ら一人ひとりもまた、自分の人生を背負う独立した個人なのだ。
事務所に戻ると、剣崎は窓を開け放った。
四月の爽やかな風が、書斎に溜まっていた「支配」の澱を吹き飛ばしていく。
彼は、かつて妻に対して犯した自らの過ちを思い出していた。
自分もまた、かつては論理を振りかざし、妻の人生を「自分の設計図」の中に閉じ込めようとしていたことがあったのではないか。
妻が本当に欲しかったのは、正しい助言ではなく、ただ隣に座ってくれるだけの時間だったのではないか。
「……遅すぎたな。だが、学ばないよりはマシだ」
剣崎は、棚に飾られた妻の写真を手に取った。
あの頃の彼女の微笑みは、今も変わらずそこにあり、そして、今の剣崎の「自立」を見守っているように見える。
「メティス」
『はい、宗一郎さん』
「今回のケースをデータベースに保存しておけ。……『親という名のシステム』がいかにして愛を汚染してしまって、それを人間がどう乗り越えて行くのか。そのログは、きっと誰かの役に立つはずだ」
『了解しました。……宗一郎さん、一つ報告があります。悟様からメッセージです。「お陰様で、明日からまた一歩、自分の足で歩けそうです。ありがとうございました」と』
「……そうか」
剣崎は深く頷き、窓の外の東京を見下ろした。
街は、今日もまた膨大なデータの海の中で、無数の人々が迷い、愛し合い、傷つきながら生きている。
剣崎宗一郎の物語は終わらない。
システムにバグが潜む限り、愛という名の障害が起きる限り。
この六十四歳の「公理(Axiom)」は、今日もまた、誰かの人生を救うためのコードを書き続けるだろう。
「さて……」
剣崎はジャケットを羽織った。
今日は、久しぶりに外へ出て、一人で散歩でもしてみようか。
誰の指示も受けず、誰の監視も受けない、自分だけの自由な散歩を。

(完)
