【小説】『パンドラ・ファイル』(その10)『月を撃つ影(ムーンショット・シャドウ) ~2050年の甘い罠~』【第二部:パンドラの極秘デバッグ】第4章:血税のロンダリング
「……Axiom、これを見ろ。国家規模の『貯金箱』だ」
アバカスの低く、乾いた声が書斎に響いた。
メインモニターに映し出されたのは、複雑に絡み合う資金移動の樹形図だった。一兆円という、想像を絶する額の血税。それが「研究開発費」という名目で、どのように枝分かれし、最終的にどこへ流れ込んでいるのか。アバカスの執念の調査が、その「循環構造」を浮き彫りにしていた。
「解説を頼む、アバカス」
Abacus(アバカス):
『まず、政府から出された一兆円は、表向き「ムーンショット推進財団」に入る。そこから数百のベンチャー企業に分散投資されるんだが……そのベンチャー企業の8割が、「ルナ・キャピタル」の役員が設立したペーパーカンパニーだ。つまり、政府の金は、研究のためではなく、単にルナ・キャピタルの懐を肥やすための「環流システム」に組み込まれている』
「公金を私物化しているわけか。だが、それだけでは一兆円を飲み込むのは難しいはずだ」
Abacus:
『その通り。奴らの真の狙いは「呼び水」だ。政府公認という圧倒的なブランドを餌に、民間の高齢者からさらに数兆円を巻き上げる。……ローズ、例の「契約書」の分析はどうだ?』
Madame_Rose(マダム・ローズ):
『……最悪よ、Axiom。ルナ・キャピタルが投資家にサインさせている「アバター管理委託契約」。これ、法的には「人権の譲渡」に等しいわ』
画面に、美しくデザインされたデジタルの契約書が表示される。
Rose:
『「本人が判断能力を喪失した際、アバターAIによる資産運用の一任に同意する」。この一行が、すべての「合法的略奪」を可能にしている。アバターが本人になりすまして「すべての資産をルナ・キャピタルの関連ファンドに寄付する」と宣言しても、この契約がある限り、遺族は一切手出しができない。奴らは「死」の定義を書き換えて、永続的な搾取をシステム化したのよ』
「……進藤君が警告していた『意志の自動執行』か。人の一生の重みを、ただのキャッシュフローに変える。これこそが二〇五〇年のバグの正体だな」
剣崎は、机の上のメティスのインジケーターを見つめた。
今回の敵、ルナ・キャピタルの代表は轟(とどろき)という男だ。かつて政府の経済諮問委員も務めた「未来の預言者」を自称する男。

「アバカス。轟への接触ルートは確保した。私は『個人資産五〇億を抱え、自身の意識の永続を願う、死を恐れる老投資家』として奴の前に出る」
Abacus:
『危険だぞ、Axiom。轟はアバターを単なる道具と思っていない。自分の意志で動く「新しい国民」だと本気で信じている狂信者だ。論理よりも、奴の「ユートピア」を否定されることに激昂するだろう』
「……構わん。私の論理は、人の尊厳を汚すユートピアを許さない」
剣崎は、立ち上がって鏡の前に立った。
六十四歳の自分。白髪交じりの髪を整え、仕立ての良いスーツに袖を通す。
アバターという虚像を売る男に、生身の老兵が「公理」を突きつける。
「メティス。……ルナ・キャピタル本部へのアポイントメントを確定しろ。……月を撃ち落とすための舞台は、お膳立てしてもらうんじゃない。我々パンドラが、力ずくで奪い取るんだ」
『了解しました。……宗一郎さん、心拍数が上昇しています。武者震い……と定義してよろしいでしょうか?』
「……フン。老いぼれの、最後の悪あがきだよ」
剣崎の瞳には、かつて数多の企業を救い、悪徳経営者を震え上がらせた「コンサルタントの鬼」の顔が戻っていた。

