「かわいい」がすべての世界で、私はカメラを構えた。【小説・全十二章】ファインダーの向こう側 ~潮風とハレーション~第一章:潮風とシネマクラブ
1990年、春。
相模湾からの潮風が、おろしたてのジャケットの肩を撫でていく。
私が湘南葉山大学への坂道を登りながら考えていたのは、これから始まる四年間で、一体いくつの新しい物語に出会えるだろうか、ということだった。
実家から少し遠いこの海辺の大学を選んだのは、たいした理由があったわけではない。
ただ、高校時代に観たフランス映画の、主人公が海辺の街でカメラを回すシーンが、頭の片隅に焼き付いていただけだ。
私も、あんなふうに何かを切り取ってみたい。
そんな漠然とした憧れだけをスーツケースに詰め込んで、私は新しい生活の門をくぐった。
期待に胸を膨らませて入部した映画研究会――皆はそれを「シネクラ」と呼んでいた――は、私の想像していたよりもずっと本格的で、そして少しだけ厄介な場所だった。
部室には、重厚なアリフレックスの8ミリカメラや、今では博物館でしか見られないようなリニア編集機材が鎮座している。
ラジカセから流れるフリッパーズ・ギターの気だるいギターサウンドに乗って、先輩たちはヴィム・ヴェンダースがどうだとか、デヴィッド・リンチがどうだとか、私にはまだ半分さえも理解できない言葉で熱く語り合っていた。
ここは、才能と、家柄と、そして何より「センス」と呼ばれる曖昧な尺度が渦巻く、小さな王国だった。
都心から高級外車で通う部長、有名な映画監督の親戚だという脚本担当の先輩。
彼らが作り出す独特の空気の中で、私は自分が場違いな場所に迷い込んでしまったような、かすかな居心地の悪さを感じていた。
それでも、この「日常」は刺激的だった。
カメラのレンズを通して世界を覗くことの面白さ。
フィルムの匂い。
暗室の赤い光の下で、像がゆっくりと浮かび上がってくる瞬間の、まるで魔法のようなときめき。
私はただ、この世界の片隅で、静かに自分の好きなものを撮り続けられればそれでいい。
そう思っていただけだった。
この穏やかな日常が、ある一つの奇妙な伝統によって、根底から覆されることになるなんて、その時の私はまだ知る由もなかった。
誰もが当たり前のように受け入れていた、あの残酷で馬鹿げたゲームが、もうすぐ始まろうとしていたのだ。

