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『夫婦別姓』よりも『苗字の廃止』を提案します。自分らしく生きようとしていきたいあなた、是非一度、検討をお願いします。

 今、日本中で議論されている「選択的夫婦別姓」。
 賛成、反対、様々な意見が飛び交っていますが、私はここで、もう一歩先……いや、もっと根本的な提案をしてみます。

 それは、「いっそのこと、この社会から、苗字(氏)そのものを廃止してしまいませんか?」 という提案です。

「何を馬鹿なことを」と思われるかもしれません。
 しかし、これからの時代を私たちが「個人」として幸せに生きていくために、そしてこの国がこれから真に豊かな場所になって行くために、これは意外と真剣に検討すべき選択肢だと思うのです。

 今回は、なぜ私が「苗字廃止」を唱えるのか、その理由をお話しさせてください。

結婚で「自分」が消える感覚と、膨大な手間

 現在、日本の法律では、結婚すると夫婦どちらかの苗字に統一しなければなりません。
 明治憲法の時代、「家」制度が絶対だった頃の名残です。戦後の新憲法になり、戸籍は「家」単位から「夫婦」単位へと変わりましたが、実態としては今も9割以上のカップルが夫の氏を選択しており、多くの女性が改姓を余儀なくされています。

 自分の苗字が変わる。
 これは単に呼び名が変わるだけではありません。
 運転免許証、銀行口座、パスポート、クレジットカード、各種契約……。
 これら全ての名義変更にかかる膨大な手間と時間は、想像を絶する社会的コストです。また、その他、ここには書き切れないほど色々な種類の事も発生する場合もあります。。

 そして何より、「アイデンティティの喪失」という問題があります。
 生まれ育った名前が公的になくなることで、まるでこれまでの自分の人生がリセットされたような、あるいは相手の「家」に吸収されてしまったような、また、一体自分って何だったんだ、そう感じる人が居ても、それはきっと自然な感覚なんだと思います。

「家」から「個」の時代へ。苗字は「足かせ」になる?

 時代は流れています。
 かつての大日本帝国憲法の時代のように「家」を守り、家柄を引き継ぐことが最優先された時代から、新しい民主憲法の世の中になって「夫婦」というユニットが基本となり、そしてこれからは「個人」一人ひとりが大切にされる時代へと、確実にシフトしています。

 その中で、「苗字」とは何でしょうか。
 それは「どこの家の人間か」「どの血筋か」を示すラベルです。

 私たちが「自分らしく」生きようとする時、過去や出自、家柄といったラベルは、それは重たい足かせにしかなりません。
「〇〇家の長男だから」「〇〇家の嫁だから」あるいは時には「〇〇の地区の出身だから」だったり。そんな呪縛から解き放たれ、純粋な「個人」として評価され、生きていく。そのためには、家を象徴する「苗字」は、実はこれからの時代にとっては障害にすらなり得るのではないでしょうか。

「苗字」があるから、家同士のしがらみが生まれる。
「苗字」があるから、個人の尊厳よりも「家の体面」が優先される。

 それならば、いっそ苗字をなくして名前(個人名)だけにしたほうが、私たちはもっと軽やかに、自分らしく生きられる、と、私は思っています。

「苗字がない」なんてありえるの?

「苗字がない社会なんて、想像できない」
 そう思うかもしれませんが、世界を見渡せば、実はそれこそが当たり前の国や地域は、意外にも、現に、存在します。

 例えば、ミャンマー
 この国に暮らして来た人々にはそもそも「苗字」という概念がありません。親の名前を引き継ぐこともなく、生まれた曜日や親の願いを込めて、個人に固有の名前が付けられます。アウンサンスーチーさんの「アウンサン」も苗字ではなく、お父様のお名前からとった個人名の一部です。

 また、モンゴルも興味深い例です。
 モンゴルでは伝統的に氏姓を持たず、公的な身分証明などでは「父親の名前(父称)+自分の名前」で個人を特定します。例えば「朝青龍」として日本で良く知られる、ドルゴルスレン・ダグワドルジさんの場合、「ドルゴルスレン(父の名)の息子、ダグワドルジ」という意味になります。日常的には「ダグワドルジ」という自分の名前だけで生活しており、代々引き継ぐ固定された「ファミリーネーム」はありません。

 このように、「苗字がなければ社会が回らない」というのは、単に私たちの思い込みに過ぎないのです。

真の愛国心と、個人の尊厳のために

 私がこの提案をする最大の理由は、社会システムの問題だけではありません。もっと根源的な、私たち個人としての「在り方」に関わるからです。

 これまでの日本社会には、もしかしたら、まるで過去の大日本帝国憲法の時代からこの社会がまだまだちゃんと抜け切れてないかの様に、どこか「家」や「権威」といった大きなものに従うことを良しとする空気や社会的な文化がありました。
 一部の権力者たちが作り上げた「伝統」や「家制度」という名の虎の威を借り、それに従うことこそが愛国だと説く。そうやって個人の自由を縛り、支配しやすい構造が温存されてきた側面は否定できません。

 しかし、本当にこの国を愛するというのは、そんな誰かの言いなりになることでしょうか?

 私は「違う」と、強く主張したいです。
 私たち一人ひとりが、家柄や権威の付属品ではなく、独立した「個人」としての尊厳を持つこと。
 上からの押し付けではなく、自分自身の意思で、まずは自分を愛し、それを基盤に家族や友人知人・同じ地域の人など身近な人を愛し、今住んでいる土地や地域を愛し、そしてこの国を愛すること。

 そうした自立した個人が集まって初めて、健全な社会が生まれます。
 個人が尊重される社会であればこそ、私たちは隣人やこの地域や国に住む人々、そして近隣諸国の人々の「個」も尊重できるようになります。
 その結果として、それが日本だけでなく、アジアや世界との良好な関係を築き、真の平和と発展に繋がっていくことに繋がって行きます。

 苗字をなくすことは、私たちが「家」という支配構造から脱し、一人の人間として自立するための、大きな一歩になり得るのです。

現実的な課題と、未来への提案

 もちろん、明日からすぐに苗字を廃止しようとすれば、現実的な壁はあります。

  • 「同名異人が増えて、個人の特定が難しくなるのでは?」

  • 「行政システムや戸籍をどう作り変えるのか?」

 確かに、佐藤さんや鈴木さんがいなくなれば、「タカシ」や「ユイ」だけでどう区別するのか、という問題は起きます。しかし、これだけデジタル化が進んだ現代です。マイナンバーのような個人IDの活用、もしくは古くからのこの国で行われて来たように「居住地+名前」で呼ぶなど、運用次第で解決できる手段は沢山あるはずです。

 私のこの提案は、今の段階ではきっと極論であり、理想論に聞こえることでしょう。
 しかし、「夫婦別姓すら進まない現状」を嘆くだけでなく、一度視点をガラリと変えてみてほしいのです。

「そもそも、なぜ私たちには苗字が必要なのか?」

 この問いかけをきっかけに、家制度の呪縛や、慣習の是非について、皆さんと一緒に考えてみたいのです。
 過去や家柄にとらわれず、誰もが自分らしく生きていける社会。
 それがひいては、地域や国家、そして世界の平和へとつながっていく。

 そんな未来を作るための選択肢の一つとして、「苗字の廃止」、一度検討してみてくれませんか?


<参考資料>


ふと、小説を書いてみました。二種類の異なる「愛国心」は共存できるか?がテーマです。