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【創作大賞2024応募作】神々の憂い #2


二章

  
 ふぅー。
 長い一日だった。
 風呂から上がると、どっと疲れが押し寄せて、崩れるようにベッドに倒れ込む。

 住むところまで失っているのではないかという一抹の不安に駆られながら家路につくと、火事でアパートが焼け落ちていることもなければ、上階の水漏れで部屋が水浸しになっていることもない。もちろん空き巣に侵入された形跡もない。朝、家を出たときと同じ様で出迎えてくれた。

 ヤク爺との出会いが、厄落としにつながったのだろうか。
 朱里七福神社の神様だったりして……。
 ふふふっ。

 ベッドの上で体をよじって仰向けになると、目の前は天井の真っ白な世界になる。そんな真っ白な世界を見ていると、ふいにどこからともなく漂ってきた慎二の残り香が、灯の聖域を無遠慮に刺激した。
 視界が水の膜で覆われたかと思うと、ぐにゃりと歪む。やがて温かい雫が頬を伝う。一度あふれ出てしまうと、せきを切ったように流れ落ち、どうやっても止めようがなかった。
 
 慎二とは、彼が婚約したという情報が社内を駆け巡ったあと、意外な展開を見せて急接近した。
 専務の娘さんとのことは偽装婚約だと打ち明けられたからだ。

 慎二いわく、専務の娘さんは独身主義者というわけではないけれど、当時携わっていた仕事のプロジェクトを軌道に乗せることだけに集中したがっていた。にも関わらず、専務は娘の描く人生設計に全く理解を示さなかった。
 海外赴任が決まっていた娘さんに対して、せめて海外に飛び立つ前に、なんとしても結婚の道筋をつけさせたがっていた。

 会社での専務は、斬新な企画をバシバシと打ち出し、それでいて、イケると思った企画案は、職位に関係なくバンバン採用する柔軟な考えの持ち主だというのに、裏の顔はオールドファッション、言ってみれば昭和的価値観の持ち主だったことに驚いた。

 そんな専務の思惑に白羽の矢が立てられたのが慎二だったという。
 仕組まれたお見合いの席で、二人きりになるや否や、慎二は、娘さんから婚約するふりをして欲しいと頼まれたらしい。

 慎二は、親に敷かれたレールの上を走らなければならない娘さんが不憫に思え、思わず偽装婚約を承諾してしまったと言っていた。
 もちろん婚約解消後、会社で不当な扱いを受けないように配慮される形での婚約解消という条件付きだ。

 もう一つの条件として、専務にさえバレなければ、恋人を作ることも合意済みなので、婚約者の振りをしても特に不利益になることはないと考えたと言っていた。

 本来ならば、婚約の事実は親族以外には伏せられる約束だったけれども、娘の婚約がよほど嬉しかったのか、専務がつい口を滑らせて、会社中に知れ渡ることになってしまったことは誤算だったという。
 そのことについては、専務の娘さんからも何度も頭を下げられたらしい。
 にわかには、信じられない話だけれど、その場しのぎの創り話だという確証も持てなかった。


 その日から、慎二からの熱烈な想いがこもったメールが届くようになり、元々彼に好意を寄せていた灯にとって、想いを受け入れるまでにそう時間はかからなかった。 

 だが、慎二との交際が二年ほど過ぎたあたりから、こそこそと隠れて会うことに罪悪感を抱くようになり、「そろそろ、関係をはっきりさせて欲しい」と、そう慎二に告げた。
 偽装とはいえ、自分の恋人に婚約者がいるという事実に耐えられなくなったからだ。
 思えば、そのころからふたりの関係に隙間風が吹き始めたように思う。けれど、すれ違いなんて一過性のもので、偽りの婚約関係さえ解消すれば、問題は解決すると信じていたし、そう信じたかった。

 しばらくすると、慎二とは会社以外で会えない日々が続いた。
 きっと偽装婚約の関係を清算してくれているのだろう、そう無邪気に信じていたあの頃の自分を引っ叩いてやりたくなる。

「別れよう」

 そうメールが届いた時、なぜ別れの言葉が灯に向けられているのか理解できずに、困惑した。

「送信先、間違えてない?」

 思わず、そう返すと、既読のしるしがついたまま、返信がない。

 痺れを切らして通話ボタンをタップする。
 コール音が虚しく響くだけで、応答がない。

 ここにきてようやくおかしいと気づいた。
 よもや浮気⁇
 よくよく考えてみれば、「別れよう」だなんて言葉は、浮気以外にありえない。浮気相手に送るメールを誤って灯に寄越したということか⁇

 震える指先で、「会って話したい」そうメッセージを送ると
「ごめん」と一言だけ、返ってきた。

 逃げてどうする!!

 百歩譲って、金輪際こんりんざい顔を合わさずに済む相手ならば、このやり方もわからないではない。けれど、慎二とは、同じ会社の同じ部署、それもペアで仕事をするいわば相棒という関係だ。明日からどういうつもりで顔を合わせるつもりなのか。少なくとも仕事に支障が出ないように、しかるべき配慮があってもいいのではないか。

 沸々とした怒りが込み上げる。

 それでも、深く反省しているのであれば、許さないこともないと、惚れた弱みもちらりと顔を出した。

「私には、理由を知る権利がありますよね」

 感情におもねるまま、そう返すと、少しの間をおいてスマートフォンが震え、メッセージの受信を知らせた。

『婚約者の帰国が決まった。それに専務も君との関係に疑いを持ち始めてる』
「だったら、予定通りに、偽装婚約を解消するチャンスじゃない?」
『ごめん。僕は予定通り、彼女と結婚するよ』

 意味がわからなかった。
 けれど、お互いが放った「予定通り」の意味が噛み合っていないことだけは理解できた。
 偽装婚約なのに結婚?
 灯の知らないところで、専務のお嬢さんと浮気でもしていたというのか?
 ちがう……。
 そうじゃない……。
 偽装婚約こそが、偽装だった。
 婚約は正式なものだったのだ。
 浮気相手は灯の方だ。
 見たくないものが見えた瞬間、ぞわりと肌が粟立った。
 独身の特権とばかりに、結婚が決まった男が最後の女遊びに精を出す。
 太古の昔より擦られ過ぎた話。
 正式な婚約だと知っていたら、付き合ったりなどしていない。そこまで無分別な女ではないという自負はある。

 自分の恋人が、いつかは結婚したいと夢見た恋人が、息をするように嘘を吐き、平然と人を騙すような卑劣な男だったなんて知りたくはなかった。そして、そんな典型的な手口に引っかかった自身の愚かさにも腹が立つ。

 やり場のない怒りを抱えあぐねて、手にしていたスマートフォンを思いきり壁に投げつける。
 『ゴン』という鈍い音が響き、物に当たることしかできない今の状況を物語っているようで、余計に惨めに思えてくる。

 堪えても堪えても、涙が溢れ出てくる。
 慎二の顔なんて二度と見たくもない。

 けれど、明日は何がなんでも出社すると、心に決めた。
 灯の泣き腫らした目を見て、純情をもてあそんだ罪悪感に苛まれればいい。きっと何も知らない同僚たちが、「どうしたの?」と、好奇心半分にかけよってくるはずだ。そんな彼女たちに「彼氏に騙されてた」と、思いっきり悲壮な顔で泣きついてみよう。彼女たちの口から放たれる慰めや同情の言葉は、そのままナイフとなって、慎二の心をえぐってくれるはずだ。
 すっぱと切られてしまえ。
 仕事だって、絶対に辞めてなんかやらない。
 一生、灯の姿を見て苦しめばいい。
 それがせめてもの慎二に対する復讐なのだから。
 
 翌日出社すると、慎二は国際事業部へと異動になっていた。
 そして社員たちのヒソヒソとした囁きが灯に向けられていることに気付く。
 そこには好奇に満ちた居心地の悪い空気感だけが漂っていた。
 
 ――やられた。
 
 数日後、真相を知ったときにはすべてが手遅れだった。慎二に都合がいいように創り上げられた物語が社内中に広まっていたからだ。
 どうやら、急に別れ話が持ち上がったのは、慎二と灯が親密そうに歩いているところを社内の人間に目撃されていたことが発端だったらしい。社内には、慎二の婚約を快く思っていないやからがそれなりにいる。このことはすぐに専務の耳に入った。
 専務から呼び出された慎二は、灯につきまとわれて困っていると虚偽の弁明をした。
 対して人事部に呼び出された灯は、ストーカー行為は立派な犯罪であると延々に咎められ、事を荒立てない代償として、やんわりと退職を促された。もちろん、誤解であることは散々説明したけれども、聞き入れてはもらえない。
 ストーカー犯は自身がストーカー行為をしている自覚がないと聞いたことがあるが、きっと灯もそのたぐいと思われたのだろう。
 人事部長の憐れみに満ちた眼差しは、灯の抵抗する気力を喪失させ、退職を受け入れる以外の選択肢を根こそぎへし折った。
 
 そして迎えた、最終出社日の今日。
 形ばかりの業務の引き継ぎやデスク周りなどの私物の片付けはあっという間に終わり、残すは貸与されている業務用のスマートフォンとノートパソコンをシステム管理課へ返却するだけとなった。

 そんな中、灯の神経の昂りは最高潮に達していた。
 この時間帯のシステム管理課は、派遣事務員の真芝ましば一人しかいない。
 社員全員に一斉メールを送ったとしても、SEが気付けば、送信取り消し措置が施される可能性がある。けれど今ならその可能性は限りなく低い。
 そして、もう一人の当事者、片瀬慎二は、数日前から海外出張中。
 現地時間は真夜中。
 彼が目覚めてメールに気づくころには、社内中に真実が知れ渡り、取り繕うことは不可能なはずだ。
 だからこそ、この時間を狙った。

 この日のために準備しておいたメールを下書きフォルダから呼び起こす。
 これまでに慎二からもらったメールの数々をスクリーンショットにして貼り付けたものだ。それらには、専務の娘さんとの婚約は偽装であること、本当に大切に思っているのは灯だけあること、だから付き合って欲しい、という趣旨の熱烈な愛の言葉が綴られている。紛れもなく灯の潔白を示すものだ。
 プライベートメールをさらすだなんて、どうかとも思ったが、保身のために都合のいい話をでっちあげた慎二に対して、心の中で何かがパチンと弾けたのだから仕方がない。
 きっと、こんな反撃を仕掛けるだなんて、慎二は夢にも思っていないだろう。
 窮鼠きゅうそ猫を噛むだ。
 灯は静かに、深く息をすう。
 さよなら……、慎二……。
 
 送信ボタンをクリックする。
 
 「お世話になりました」
 最後に灯がそう声を張ると同時に、誰かが「なにこれ」という声を漏らした。
 その小さな呟きは、まるで倒れたドミノが広がるように、フロア中を侵食し始める。そんなざわめきを背にして、灯はパソコン返却のためにシステム管理課へと向かったのだった。
 
 ――大事なのは引き際じゃ。
 
 頭の中が、慎二で埋め尽くされそうになったときに、ヤク爺の声が耳に蘇り、現実へと引き戻された。

 そうだよね。ヤク爺。
 もう執着するのはやめよう。

 灯は手の甲でゴシゴシと涙を拭うと、ベッドからモゾモゾと這い出して、床に置きっぱなしになっていたカバンの中から御朱印帳を取り出した。すると、御朱印帳が青白くほのかな光を発していることに気付いた。

 そういえば、ヤク爺は、願いを叶えてくれる摩訶不思議な御朱印帳だと言っていた。
 てっきり、灯を元気付けるための慰めの言葉だと受け取っていたけれども……、そうではないのかもしれない。

 恐る恐る、御朱印帳を開くと、まるで書家が書いたような達筆な墨文字が目に飛び込んでくる。あまりにも達筆すぎて、何が書いてあるのかさっぱり理解できない。
 かろうじて、七月二十日、明治森神社めいじのもりじんじゃの文字は読み取れた。地図らしき絵も添えてある。
 七月二十日に明治森神社へ行けということなのだろう。

 願い事。
 何を願おう。

 ほんの一瞬だけ慎二への恨み言が脳裏をかすめた。でも、そんな醜いものに大切な願いを使いたくはない。
 もっと前向きになれる願いがいい。
 何がいいだろう。
 やっぱり新たな出会いだろうか。
 あーでもない、こーでもないと考えを巡らせていると、それだけで、心の隅にある澱が溶け出していくようだった。
 けれど不思議なことに、御朱印帳には、明治森神社の他に、神社名らしきものは見つからない。
 ヤク爺は、三種類の御朱印を集める必要があると言っていた……。
 明治森神社で三種類の御朱印をいただくということだろうか。それとも、やはりあれは、ヤク爺の単なる戯言なのだろうか。
 まぁ、いいや。神社巡りは嫌いじゃない。願いごと云々を抜きにしても、この美しい御朱印帳に御朱印を頂きたい、そう思えた。そして、この御朱印帳を持っているだけで、なんだか良いことが起こりそうな気がして、ワクワクしていた。

《続く》

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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