【創作大賞2024応募作】神々の憂い #3
三章
午前七時。
コンビニ店員の朝は早い。
会社勤めをしているころなら、まだアパートにいる時間だ。なのにもう働いている。
ここ七福マートで、灯が働き始めてから二週間が過ぎた。
ヤク爺の言う、萬屋とは、いわゆるコンビニエンス・ストアで、あの日、ヤク爺から七福マートを勧められたのも何かの縁だと思い、灯はその足で面接に向かっていたのだ。
けれど勢いで赴いたはいいものの、履歴書は持参していないし、転職先が見つかり次第、アルバイトは辞めるつもりなので、いつまで働けるかもわからない。「働く気あんの?」と追い返されても仕方がない状況にも関わらず、人の良さそうな顔をした店長から
「念のため、明日、履歴書と身分証明書を持ってきてもらえます? ほら、何かあったら困るでしょ。最近、色々とうるさいですからね」
と言われ、そのまま採用されたのだ。
これで生活費の問題が少しはマシになる、そう喜んだのも束の間で、学生時代にコンビニでのアルバイト経験がない灯は、認識の甘さに打ちのめされた。
覚えなければならないことが、わんさかあるのだ。
タバコひとつをとっても、銘柄を言うお客さんには、「番号で伝えてください!」と叫びたくなるし、突然「ゴミ処理券500円分」と言われた日には、ゴミ処理券ってなに? と真剣に悩み込んだ。
商品の発注に、コーヒーマシーンのメンテナンス、ホットスナックの調理と、まだまだ教えてもらっていない業務も山ほどある。アルバイトとはいえ、会社勤めと同じくらいの疲労感に襲われる毎日なのだ。
そして、この疲労感は、灯の中から悲しみという感情を消し去ってくれる即効性の高い秘薬のようだった。
失恋の感傷に浸る間もなく、忙しく働けるということは、ありがたい。
「いらっしゃいませー」
店内にアルバイト店員の坂下大樹の声が響いている。灯よりも四歳年下の大学生で、灯の指導係でもある。坂下は少しでも奨学金の額を減らしたいと、熱心にバイトに励んでいる真面目な苦学生だ。
「坂下君、今日の講義は何時から?」
「今日は四限だけっす。だから、三時までっす」
「じゃぁ、上がりは私と同じだね」
「そうっすね。四限だけとかダルいし、ガチでやめて欲しいんっすよね。他の日にしてくれたら一日休めるのに。必修科目だから、選択しない、なんてことはできないし」
「ハハハ、そういう迷惑な講義、あったなぁ。面白い講義なら、まだ我慢できるけど、メチャクチャつまんないの」
「そうなんっすよー。 ガチで迷惑っす。これって、大学あるあるなんすかねー」
「かもねー」
たわいない雑談を交わしつつも、坂下は手を止めることなく、商品の補充を続けている。きっと社会人になっても効率よく動けるタイプだろう。
「灯さん、弁当の補充お願いしてもいいっすか?」
そう言って、キャスターに乗せられた青い折りたたみコンテナにびっしりと詰められたざるそばや冷やしうどんが、スルリと灯の目の前に置かれた。
「はい、よろこんで!」
居酒屋のような返事をして、大急ぎでとろろそばや温玉冷やしうどんなどを、商品棚に並べていく。壁にかけられた時計にチラリと目を向けると、七時半を指していた。
――そろそろ彼がやってくる時間だ。
静かに身構えると、噂をすればの『不審者一号』が店に入ってきた。
ボサボサの頭、ヨレヨレのTシャツ、スウェットパンツ。
いかにも起きぬけの感じで、歳のころは五十歳くらいだろうか、見るからに無職。まぁ、無職に関しては、人のことは言えないけれど、アルバイトをしているだけ、灯の方がいくぶんかマシだろう。
不審者一号は、いつもこれくらいの時間にやってきては、コーヒーと経済新聞を買い、イートインスペースで新聞をめくる。そして、あとからやってくるランドセルを背負った小学校低学年くらいの男の子と一緒に朝ごはんを買って、仲良く並んで食べる。
ボサボサの頭で仏頂面の中年男相手に、人懐っこそうな笑顔で話しかけてる男の子の姿が奇妙に映る。
今どきの小学生は、見知らぬ人に話かけられても、返事をしない、という教えが叩き込まれているというが、親子や親戚に見えないふたりの関係は、一体なんなのだろう。
近年では、幼い子どもが犠牲になる痛ましい事件が増えていると、耳にもする……。
男の子を手懐けたところで、狼が牙を剥く。
まさか、まさかね……。
灯はブルっと身震いをさせた。
ひとり妄想にふけっていると、ふたりは朝食を食べ終えて、足早に店から出て行ってしまった。
そんなふたりと入れ替わるように、『不審者二号』が店に入ってくる。
不審者二号も、だいたい、この時間にやってくる。
そして、コーヒーを購入後、イートインスペースでコーヒーを啜る。
彼もまた、会社勤めをしているような服装ではない。が、不審者一号よりも清潔感はある。歳の頃も灯と同じくらいであろうか。ただ、ひどく疲れた印象を受けるのは否めない。
毎朝コンビニでコーヒーを飲んでいるだけだったら、『不審者二号』なんて不名誉なあだ名を付けたりしないのだが、彼もまた『不審者一号』に負けず劣らずの怪しさを放っているのだ。
不審者二号は、コーヒーを飲みながら、いつも誰かの電話を待っている。そして、待ちわびた電話がかかってくると、ひと言、ふた言、言葉を交わし、店内のATMでお金を引き出して帰って行く。
密かに、特殊詐欺の『出し子』ではないかと睨んでいる。
あー、もう、何なの、この店は。犯罪者が出入りしているだなんてきいてない!
バイト仲間は優しいし、理不尽なクレームをつけてくる客もいない、朝ご飯やお昼ご飯なんて、消費期限が切れそうなものを、無償で食べさせてくれる。ヤク爺の言う通り、いい店だと思う。けれど客層が犯罪者となれば話は別だ。身の振り方を考える必要がある。
そうこうしている内に、不審者二号に電話がかかり、ATMから現金を引き出すと、いそいそと店から出て行ってしまい、真相は今日もわからずじまいだ。
灯は、先ほどまで『不審者二号』が座っていたイートインスペースを眺めていると、大事なことに気がついた。
「坂下君、私……、イートインのお客さんの会計時に、消費税を10%にしてませんでした……」
どうしよう、これって税金だから、なにかお咎めがあるのだろうか。瞬時に青ざめた灯に対して、坂下は「大丈夫っす。あそこは、店外なんです」と鷹揚に答えた。
「店外?」
言われてみれば、レジ操作を教わった際に、消費税切り替えの説明は受けた覚えがない。
どういうこと?
「オーナーのこだわりみたいっす。詳しい仕組みまではよく分からないっすけど、イートインスペースは、七福マート所有じゃないらしいんっす。だから、店外なんです。コンビニのイートインスペースは、駆け込み寺っつうか、孤独な人を生み出さないようにする大事なセーフティネットだからって」
「孤独な人を生み出さない……?」
「はい。ご近所の人がここで顔見知りになって、コミュニケーションを広げていく、みたいな。ほら、ここって、下町だけど、最近はビジネス街になりつつあるじゃないっすか。だから、住人同士のつながりが希薄になってるらしいんっすよ。ここのバイトで、気づいたんすけど、夜間にひとりでご飯を買いに来る子って意外に多いと思いません? 塾に通ってたり、共働きの家が多いからーー。そんな子たちが、ここで同じくらいの年代の子と仲良くなって、一緒に夜ご飯を食べてるみたいっすよ。この辺の子って私立に通ってる子が多いから、近所に住んでても子ども同士の交流がないみたいんっすよ。そんな子どもたちのことを、近所の一人暮らしのお年寄りたちが見守っててーー。僕の地元じゃ、子どもが毎晩ひとりで夜ご飯を食べるなんて、わけありな家でしたけど、都会はこれが普通なんすかね」
言われてみれば、灯の地元だって、子どもひとりで夜ご飯を食べるなんてことはない。親が共働きだとしても、兄弟がいるし、灯のように近所に祖父母や親戚の家がある。ひとり寂しくご飯を食べるなんてことはなかった。
「普通だったら、夜遅くにコンビニで子どもがたむろってたら、追っ払われるじゃないっすか。でもここはセーフティネットとしての大事な役割を担ってる、面白い発想っすよねー。誰でも気軽に利用できるがモットーなんで、消費税が8%か10%かは重要なんっす」
この場所にそんな優しさや思いやりが詰まっているだなんて思いもよらなかった。
「僕はこの取り組みに感動して、ここでのアルバイトを続けてるっす。時給のことを考えたら、他にも条件のいいアルバイトはたくさんあるけど、どうせ働くなら、あったかいところで働きたいっす」
そんな坂下の言葉に、灯もぶんぶんと首を振って頷いた。
孤独な人を生み出さないようにするセーフティネットーー、かあ。そういえば、ここのイートインスペースはガラス張りの別室のような感じで広めに作られている。
「あーーーーっ」
突然声をあげた灯に、坂下がびくっと肩を窄ませる。
「どうしたんっすか、急に大声あげて」
「坂下君、毎朝来てる小学生とボサボサ頭のおじさんって」
「あー、翔君のことっすね」
「翔君っていうの? あの子」
「はい。飛翔の翔って漢字で、しょう君っす」
「あの二人もセーフティネット?」
「まぁそうっすね。ついでに言うと一緒にいるボサボサのおじさんは、中込さん。見た目が相当怪しいっすよね。あの人」
そういって、坂下はククッと笑い声を漏らしたあと、すぅーっと真顔になり「でも、中身はスーパーマンなんっす。あの人」と言って、ふたりのことを教えてくれた。
翔は、亡くなった祖父の家でシングルマザーの母親とふたりで暮らしているという。けれど母親は体調を崩して、入退院を繰り返していて、翔はあの歳で一人暮らしを余儀なくされた期間があったらしい。
当然ながら、児童相談所が黙っているはずもなく、翔は養護施設へ保護されることが決まっていた。けれど、翔は頑なにこれを拒否。
なんと、児童相談所の職員が迎えに来る日に、家出を決行したという。
「家出?」
「そうなんっす。あんなチビのくせして、やることが大胆っすよね。どこに家出したと思います?」
どこ? おばあちゃんの家とか……?
でも、そんな避難場所があるなら、養護施設になんて行かなくてもいいはずだし。
まさかーー?
「そうっす。ここ、七福マートに逃げてきたんっす!」
やっぱり!!
「それで?」
「僕、その日はバタバタしてたから、翔君の異変に気付けなくて。イートインスペースにいるなー、くらいにしか思ってなかったんすよ。なのに、居合わせた中込さんだけが翔君の異変というか、覚悟に気付いたみたいなんす」
「それで、それで」
「翔君、中込さんに縋り付ついて泣いたんっすよ『ママと離れたくないーっ!』って。赤ちゃんがギャン泣きするみたいな感じで。つっても、翔君も十分子どもなんすけど、いっつも聞き分けのいい翔君が、ダムが決壊したみたいに、わんわん泣いてるのが、もう……」
そう言って、坂下は声を詰まらせた。
灯は目を瞑って、そのときのふたりの姿を想像してみた。
いつも、ニコニコしているあの子が、強面のおじさんに縋り付いて泣きじゃくる姿を。どれだけ、追い詰められていたのだろう。あんな小さな子どもが、誰もいない家で、たったひとりでご飯を食べて夜眠るだなんて、想像しただけで胸がギュンとなる。どう考えたって養護施設で保護してもらった方がいいに決まってる。けれど、あれくらいの歳の子にとって唯一の味方は親なのだ。その親と引き裂かれて、二度と会えなくなると勘違いしてしまったら……。どんなことをしてでも、逃げ出そうとするのかもしれない。けれど小さな胸の内は不安で不安でたまらなくて、ここ七福マートで必死に不安と戦っていた。そんなときに、たったひとりの誰かが「どうかしたのか?」と異変に気付いてくれたなら……。
「それで?」
「中込さんは、すぐに色んなところに電話をかけ始めて、あっという間に在宅看護の段取りを取り付けたんっす」
「在宅看護?」
「はい。そもそも翔君のお母さんが入院して、家にいないのが問題なんだから、まずはそこを解消したっす」
「でも、家に戻ってきてもお世話をする人が必要でしょ? ヤングケアラーとか、今問題になってるし」
まさに昨日のテレビで、ヤングケアラーの特集が放送されていた。家族の介護のために不登校になっている子もいて、支援制度が行き届いていないと問題視されているらしい。
「そこなんっすよ。そもそも児童相談所へ相談したのは店長なんです。ヤングケアラーは大変だから、って。でも、中込さんは、ヘルパーを手配しました。しかも費用は中込さんの自腹っすよ。翔君が、介護や家事に関わる必要がない環境を整えたんっす」
「すごっ!」
たまたまコンビニで出会った子どものために自腹でヘルパーなんて手配するものだろうか?
「しかも、それだけじゃないっす。店長に、自治会長を紹介して欲しいって頭を下げたんっす」
「自治会長?」
「はい。いざという時のために、後見人が必要だろうって言って」
「後見人?」
「母親が家にいるっつっても、やっぱ病人だし、保護者として認めてもらえない可能性があるじゃないっすか」
「まぁ、たしかに、その可能性はあるのかも……」
「中込さんは、自分は親族じゃないから、もしものときに後見人として認めてもらえない可能性がある。でも自治会長なら信頼があるだろうって言って」
「短時間でそこまで気を回すって、あのおじさん何者?」
すると坂下は、その質問を待ってました、といわんばかりに右の口の端を上げた。
「驚かないでくださいよ」
「すごい人なの?」
「TWO TONESって会社、知りません? あのゲームアプリで有名な」
TWO TONESーー。
灯がまだ大学生だったころ、就職を熱望していた会社だ。
創業者は、若干二十五歳のときに、当時勤めていた会社を辞めて、TWO TONESを起業。けれど起業一年目は人を雇うこともできずに、開発、営業、事務周りと、ありとあらゆる業務をひとりでこなした苦労人だ。
そんな彼に神様は味方した。
ちょうど普及し始めたスマートフォンの波にのって、起業三年目を過ぎたあたりから、売り上げも社員数も右肩上がりに成長させ、業界3位にまで押し上げた凄腕の経営者兼技術者だ。
「知ってる。確か数年前に、突然、創業者が代表取締役を辞任して大騒ぎになった会社でしょ」
「ーー中込さんっす」
「なにが?」
「その辞任した代表取締役」
人は、驚き過ぎると、声が出ないというのは本当だ。
ドラマだったら、間違いなく「えーーーーー」っという驚声をあげているシーンだが、灯はただフリーズするのみだった。
尊敬してやまないTWO TONESの創業者があのボサボサ頭で人相の悪いおじさん⁇
歳のころは確か、四十歳くらいだった気がするけど、毎朝見ているおじさんはどうみても五十代にしか見えない。
なのに同一人物?
ダメだ。頭の整理が追いつかずに思考回路がバグっている――。
それからの灯は何も考えることができず、ただひたすら機械のように働いた。
そして、昼の繁忙帯が終わりに近づき、ようやくひと息つけると思った矢先、再び嵐に見舞われた。
見覚えのある女性が入店してきたのだ。
――情報システム課の真芝さんだ。
咄嗟に隠れようとしたが間に合わず、ばっちりと目が合った。
真芝も目をまん丸にして驚いている。彼女の驚き方からして、灯がこの店でアルバイトをしていることを、知っていたわけではなさそうだ。
お願い、大人の対応で素知らぬ振りをしてください。
そう心の中で念じていると、祈りが通じたのか、真芝は灯に話しかけることなく、店の奥へと歩いていった。ほっとしたのも束の間で、サンドイッチとプリン、それにアイスコーヒー用の氷入りカップを手にして戻ってくると、迷うことなく灯が立つレジの前にドンっと商品を置いた。
えぇーっ!! なんでこっちにくるのよ。隣のレジも空いてるじゃない!
空気を読んでよ。空気を!
「よかった。まさかこんなところで会えるなんて。志方さん、引っ越ししましたか?」
前のめりに訊かれ、思わずポカンとしてしまった。
彼女とは仕事以外で会話らしい会話をした覚えがない。なぜ、プライベートなことを訊かれるのだろう。やはり、あれか。片瀬慎二のゴシップは、社内で一番ホットな話題だろうし、好奇心が先走りしているのだろうか。
だが、理由はどうであれ、灯がここで働いていることを知られてしまったからには、遅かれ早かれ、社内の人たちにも伝わって、冷やかし半分にこの店にやってくる輩も出てくるだろう。動物園のパンダになるのは時間の問題だ。ここでアルバイトを続けることは難しくなるだろうーー、そんなことを考えていると、「志方さん!」と勢いよく名前が呼ばれて我に返った。
「片瀬さんの帰国が一週間、早まりました」
噛み付くような勢いで言われ、またもや頭の中が混乱してくる。
慎二の帰国が、今の私にどんな関係があるというのだ。
「そ、そうなの?」
真芝の勢いに気圧され、そう答えるのがやっとだった。
「片瀬さん、すごく怒ってるみたいです。自業自得なのに、なに言ってるの? って感じですけど。志方さん、電話番号変えましたよね?」
「えっ? まぁ、はい」
「片瀬さん、いろんな人に『志方さんの連絡先を知らないか?』って訊きまくってるみたいです。うちの課の人にまで。わざわざ、海外出張先からですよ。あの調子じゃ、帰国したら、すぐに志方さんの家に押し掛けるような気がして、心配で、心配で」
「えぇっと、心配してくれて、ありがとう、ございます」
「ありがとうは、まだ早いです。今のうちに逃げてください!」
有無を言わさぬ口調でピシャリと言われ、なぜ真芝がこれほどまでに気を揉んでいるのかが分からずに戸惑っていると、隣のレジに立っていた坂下が割って入ってきた。
「あのう、灯さん、昼休憩まだっすよね? 先に休憩入っちゃってください」
そう言ってくれた坂下の優しさに、一瞬だけ『余計なことは言わないで!』と苛立ちを覚えた。
坂下に悪気がないことは分かってる。
逆の立場であれば、灯だって同じく休憩を勧めたに違いない。他人から向けられた厚意に嫌悪感を抱く度量の狭さに嫌気が差す。けれど、あの会社に関わりのある人物と、今はまだ話をする気になれないのだ。
できればそっとしておいて欲しい。
そう思う一方で、あれほど強く「逃げてください!」と訴えられると、社内で何か起きているのだろうかと気にもなる。
灯はしばし黙考し、そして静かに口を開いた。
「休憩、先に頂いてもいいですか?」
「はい。お気になさらず」
灯は一礼してレジを離れる。それから、急いでサンドイッチとオレンジジュースを購入すると、バックヤードへと戻り、奥の更衣室で制服のポロシャツを脱いで、上着だけ私服に着替えた。
引っ越しに関しては、灯だって考えなかった訳ではない。けれど無い袖は振れない。転職して引っ越し費用が貯まるまでは我慢しようと諦めていたのだ。けれどそんな悠長なことを言っている場合ではないかもしれない。事の深刻さにようやく気がついた。
結局、住む家も失うのか……。
着替えを済ませて、イートインスペースへ向かうと、真芝は灯の顔を見るや否や
「あのう、私、レジでイートインって言わなかったので、消費税が……」
と、不安げに訊いてきた。
「大丈夫です。ここはね、店外なんです」
「店外?」
「そう。とりあえず、食べながら話しませんか」
そう促すと、真芝は「そうですね」と言って、サンドイッチのフィルムを剥がし始めた。そんな真芝に、坂下から教えてもらったばかりの話をする。
「へぇー、素敵なコンセプトですね。私、ここの七福プリンが大好きで、時々買いにくるんです。お昼休みにここまで足を延ばすと、ちょっと時間が足りないから、仕事帰りに時々。今日は、おつかいで、この近くのビルに書類を届けに来たついでに寄ったんです。お昼休みも長めにもらえたので」
「そうだったんですね。まさか、ここで会社の人に会うなんて思ってなかったから、そのう、びっくりしてしまって。それで、あのう、会社の人には……」
「言いませんよ。誰にも。安心してください。でも……」
ーーでも?
何か見返りを求められるのだろうかと一瞬身構えたが、次に発せられた真芝の言葉を訊いて、自身の愚かさを恥じた。
「人事部も志方さんのことを探しているみたいです。専務の差し金かもしれません。それで……、そのう、余計なお世話だとは思ったんですけど、『志方さんは、パソコンを返却にきた際に、しばらく実家に帰るって言ってましたよ』って言っちゃったんです」
「えっ、あ、ありがとう……、ございます」
「とんでもないです。でも、そんなに時間稼ぎはできないと思います。今は専務が敵か味方かわからないので、慎重になったほうがいいです」
「ですよね」
「はい、だから一刻も早く身を隠してください。私は志方さんの味方です!」
まるで選挙立候補者が「私は国民の味方です!」と力説するような力の入りようで、気圧される。
「あのう、それなんですけど、どうしてそこまで私に力を貸してくれるんですか?」
そんな問いに一瞬だけ真芝の視線がさまよった。
「笑わないでくださいね。志方さん、私のこと一度も『派遣さん』って呼ばなかったでしょ。すごく嬉しかったんです。みんな私のことを派遣さんって呼ぶんです。すっごく小さいことなんですけど、地味に辛いんです。でも志方さんはいつも私のことを『真芝さん』って呼んでくれました。それに……」
「それに?」
「志方さんに、昔の自分を重ね合わせているんだと思います。私は、泣き寝入りするしかなかったから。だから志方さんを応援することで、あの時の自分を救ってるんだと思います。私は自分のやりたいことをやってるだけなので、お礼を言われるようなことは何もやってません」
「それって……?」
「はい。私も志方さんと同じように付き合ってた人に騙されて……。前の会社を辞めました。だから志方さんの反撃を尊敬しています!」
「尊敬――って、あまり褒められたものじゃないですけどね」
おどけるように首を竦めると、どちらからともなく大笑いした。
ひとしきり笑い合ったあと「志方さん、これ」と言って、おずおずと差し出された小さなメモには、携帯の番号と思われる数字とメッセージアプリのIDが書かれていた。
「お守りです。この先、片瀬さんや会社の動きで、知りたいことが出てくるかもしれないので、お守りとして持っててください」
メモを受け取り、灯も連絡先を渡そうとポケットからスマートフォンを取り出すと、真芝に遮られた。
「無理する必要はないです。会社の誰にも連絡先を教えなかったのは、志方さんなりの覚悟ですよね。だから大丈夫です。私からどうしても志方さんに伝えたいことがあれば、ここに来ます。志方さんに会いにくるんじゃなくて、プリンを買いに。そのときに少しくらい話せますよね」
全員敵だと思っていたあの会社にも灯のことを気にかけてくれる人がいたと思うと胸の辺りが温かくなった。
灯は、ありがとうと言う代わりに、深く頷いた。
「よかった。このお店を教えてくれた、おじいちゃんに感謝しなくっちゃ」
「えっ、それって、ヤク爺?」
「んー、名前は知らないんですけど、神社で会ったお年寄りが、隣駅にある七福マートの七福プリンは絶品だよって。一口食べると、嫌なことがあっても、ぜーんぶ忘れられるよって教えてくれたんです」
「同じだ」
「同じって?」
「私も、ヤク爺に、『七福マートは良きところじゃ。次の仕事が見つかるまで奉公してみるのもよかろうぞ』って言われて、ここの面接を受けたんです」
「えー!! そうなんですか」
ふたりして、キャッキャと騒ぎあっていると、坂下がひょっこりとイートインスペースに顔を出した。
壁時計を確認すると13時半を回っている。
しまった、つい話し込んでしまった。そろそろ仕事に戻らなきゃ。
「すみません。すぐに戻ります」
そう声をかけて、急いでゴミを片付け始めると、「そうじゃないっす」と、遮られた。
「灯さん、余計なお世話だって分かってるっすけど、おふたりの会話が聞こえちゃって……。引越しのこと、店長に連絡入れときました。すぐに来てくれるそうです」
「えっ? ごめん、どういうこと?」
「あー、えぇーっと、前に僕の姉貴がストーカー被害に遭ったことがあって、結構大変だったんです。あーいった奴らは、ちょっとおかしくなってるから、常識が通じないんで、引越し費用とかいろんな問題があるとは思うっすけど、事件になる前に、そちらのお客さんの言うとおり、引越した方がいいと思うっす。灯さんが逃げようとしている人が、ストーカーかどうかはわからないっすけど、店長はメチャクチャ顔が広い人だから、きっと助けてくれると思って」
そう言って坂下は眉毛を八の字に下げ、「お節介だったでしょうか……?」と、まるで叱られた犬のように項垂れて、灯の機嫌を探ってくる。
「そんなことないです!」
すぐさまそう返事をしたのは、真芝の方だった。そして両手で灯の肩をガシリと掴んだ。
「志方さん、今は緊急事態です。助けてくれる人がいるなら、この際すがりましょう? ねっ。そうしてもらえると、私も安心して帰れますから」
真芝は、灯の肩から手を離すと、今度は坂下の方へくるりと向き直り「志方さんのこと、よろしくお願いします」と保護者のように頭を下げると、嵐が過ぎ去るように会社へと戻って行った。
それから程なくして店長がやってくると、怒涛の勢いで引越し先が決まった。
近所に住んでいる常連客が、一年間だけ海外勤務になり、その間、家が澱まないように、空気の入れ替えや掃除をしてくれる管理人を探していたというのだ。その常連客に店長が掛け合ってくれて、灯の引越し費用が貯まるまで、住まわせてもらえるように手配してくれた。おまけに家賃はマンションの管理費のみでいいという。
早速、店長と一緒に、常連客のところへ挨拶に行くと、いかにも仕事ができそうな、灯よりも少し年上の女性が出迎えてくれた。マンションの間取りは2LDKで、そのうちの一部屋が灯の寝室となった。灯が住んでいるアパートよりも、はるかにグレードアップした上に、家賃はこれまでの半分以下という願ってもない条件の引っ越し先だ。
常連客は三日後には出発するという。家電など、荷物のほとんどは、部屋に残していくというので、灯は最低限必要な荷物のみを部屋に運び込み、残りはコンテナを借りて保管することにした。会社をクビになった灯に、こんな贅沢な暮らしが許されるのかと不安になるくらい、急転直下に物事が好転し始めた。
――神様は本当にいるのかもしれない。
《続く》
