選んでいるようで、選ばれている
繰り返し集めてしまうもの
物欲や、コレクター精神だけでは説明できない
繰り返しがある。
子どもたちは、ぬいぐるみを大切にしている。
はじまりは、水族館でお土産をひとつ買ったことだった。
「旅の記念だから」と、家族もそれには少し寛容だった。
そこから、さまざまな水族館へ行くたびに、少しずつ仲間が増えていった。

魚津で出会ったあざらしのぬいぐるみは、
娘にとって特別な存在らしい。
似たデザインのぬいぐるみを見かけたとき、
「同じだね」と言うと、「あれはあっちゃんじゃない!」と強く否定された。
見た目ではなく、過ごしてきた時間ごと、その子なのだと思った。
そしてまた、新しい仲間が増えることにも、
大きな喜びがあるようだった。
どうして、こんなにも繰り返し惹かれてしまうのだろう。
積み重なった時間が、次の出会いを呼んでいる気がしている。
壱岐で買った凧。
イチオシのように並べられていたわけではなく、売店の隅にそっと掛けられていた。
土地に根ざした、素朴なかたち。
しばらくして、平戸でも凧を手に取っていた。
似ているけれど少し違う。けれどどこか、同じ空気をまとっている。
壱岐で出会った郷土玩具のキーホルダーと、太宰府天満宮の鷽のキーホルダーもそうだった。
違う場所で、違う時間に出会ったのに、木の手触りや、祈りの気配、土地に根づいたかたちに、また手が伸びていた。

意識して探しているようで、そうでもない。
気づけば、似たものに、何度も導かれている。
選んでいるようでいて、こちらが選ばれているのかもしれない。
持ち帰ったあと、そのものとの時間について
