漆黒の鬼に、静かな情熱を視る
漆黒の鬼、あるいは「道の駅」にあるような
子どもが図工で版画をすると聞いていた。
題材は鬼のお面。
画用紙を切り貼りして段差を作るのか、鮮やかなインクを刷り重ねるのか。その工程は知らぬまま、私は勝手に、赤や青の鮮やかで賑やかな鬼を想像していた。
半月ほど経ち、持ち帰ってきた作品は、まさかの「漆黒」だった。表情も、驚くほど渋い。
予想外の漆黒に、確かにしびれた。
だが改めて私が色や造形を語るのは、どこか違う気がした。
子どもが作った時点で、もう完成している。
いや、完成というより。
そこに在るという、その“存在”に、ぐっときた。
こちらの理解を待たず、すでに立っているものへの、しびれだった。
それが私の琴線に、強く触れた。
子煩悩ゆえの評価ではない。もしこれが、旅先の道の駅の棚にあったら、郷土玩具のように迷わず「これ欲しい!」と手に取るだろう。
そのときめきは、陶片や民藝の器を不意に見つけたときの感覚に、限りなく近かった。
その黒は、ただの黒ではなかった。
私の熱狂ぶりに戸惑ったのか、子どもは「ここ、ちょっと曲がっちゃったんだよね」と少し照れ、謙遜するように言った。
私はたまらず、「工作コーナー」にそれを貼った。
けれど数時間後、子どもがやってきて「ここがいいと思う」と、別の場所を指差した。普段、自分の作品の行方に関心を示さない子が、自ら動いた。
そこは、いままで何も飾ったことのない、空白の壁だった。
言われるがままに貼り替えてみると、恐ろしいほどにしっくりきた。家の中の風の通り道が変わった気がした。

その壁に置かれた瞬間、鬼はただの作品でなく、そこに息づく存在になった。
子どもは、その鬼が最も深く呼吸できる場所を、本能で見抜いていたのかもしれない。
「その鬼をその場所に生かす」という、より根源的な配置。
それは、作品を「自分の一部」として地続きに捉えていたからこそ、見えたのだろうか。
(おまけ)
最近、床に転がっていたレゴを指して
「これ、なに?」と子どもに聞いたら、
「スーホの白い馬」と返ってきた。

