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母の「きじ馬」と、私の原風景

実家の棚には、木彫りの鳥と車輪のついた馬が、ごく当たり前のように置かれていた。

幼い頃は、それが何なのかも知らず、ただ「そこにあるもの」として眺めていた。
それが天神様ゆかりの授与品であり、九州に伝わる郷土玩具であると知るのは、ずっと後のことになる。

母が飾っていた、鷽の替え鳥ときじ馬。
その朴訥としたかたちと、どこか鮮やかな色彩が、時間をかけて、ゆっくりと感覚の奥に染み込んでいった。

郷土玩具とは、江戸末期から明治期ごろまで作られていた人形、玩具、寺社の授与品などで、身近な素材で作られ、主にその土地の民衆の生活に結びついたもの。

親が子のために作った人形や玩具、特別に作って寺社に奉納するものは、通常は郷土玩具とは呼ばない。
また、「玩具」という言葉を用いるが、必ずしも子ども向けのおもちゃとは限らない。

千葉孝嗣さんの記事より引用(中国新聞・日付不明)



新聞のコラムで、そんな説明を目にした。

郷土玩具は、大人たちが「無病息災」や「子の成長」をひたむきに願う、祈りのかたちでもある。

土地の気配や人の手の跡、時代の移ろい。
少しずつ姿を変えながら、本質だけが静かに受け渡されていく。

その重なりの中にあるものに、どうしようもなく惹かれてしまう。


かつての私は、この寺社の授与品を手に入れたい、各地の鷽を集めてみたいと、収集に心が向いている時期があった。

けれど、知れば知るほど、その世界は果てしなく、きりがなかった。

郷土玩具というものは、その土地の風土や、そこに生きる人々の暮らしに深く根ざした「生きた証」なのだと思い知らされたからだ。


生活の変化とともに、下調べを重ねて目的地を巡るような旅の仕方も、いつの間にか手放していた。

それでも、ふと立ち寄った場所で、思いがけず出会うことがある。
壱岐で見つけた郷土玩具も、そんなひとつだった。

ゆっくりと、自然に集まっていく感覚。

かっては「収集」というかたちで、外にあるものを懸命に取り込もうとしていた。
けれど、追いかけることをやめたとき、土地と自分のあいだに、やわらかな余白が生まれた。

土地の気配に呼ばれるように、ふらりと出会う。


いま、部屋の片隅に、季節に合わせて授与品や郷土玩具を飾っている。かつて強く求めたものも、ふとした縁で手元に来たものも。

土地の祈りや物語を、日常に少しずつ混ぜていく時間が、いまは何より心地いい。

鶴岡八幡宮の「神鳩笛」と、別府<豊泉堂>の鳩笛。
土地が育んだ異なる祈りのかたちが、棚で静かに並ぶ
本棚の裏にひっそりと。
長崎の「平戸鬼洋蝶」が、静かに家を見守る
深大寺の赤駒。
小さくて力強い祈りが、日常にそっと寄り添う


これらはきっと、かつて母がしてくれたことの延長にある。
いまは、私の手で繰り返しているのかもしれない。

▽ 春のひな祭りも、きっとそのひとつ


おまけ|チェストに眠るもの

谷内六郎
チェストの引き出しを開けると、谷内六郎の本が静かに時間を重ねている。
そこに描かれているのは、いつの時代にも変わらない、子どもを見つめるまなざし。
無垢な仕草や、小さな発見に満ちた風景が、ふいに胸の奥に触れてくる。


柚木沙弥郎
もう一つ、大切にしまってあるもの。
柚木沙弥郎のデザインが施されたお菓子の箱。
広島〈御菓子所 高木〉や、松本〈開運堂〉。
お菓子を食べ終えたあとも、捨てるには忍びない凛とした美しさを放っている。


どれも、郷土玩具が持つ無垢な力と、どこかでつながっている。

暮らしをそっと彩り、静かに息を与えてくれる
色。祈りのかたち。包むかたち。遠い記憶を映した絵。

どれもが、その土地と時間の気配をまとっている。
気づけば、そうしたものを、ひとかけらずつ集めている。

チームくまもと。土地の生命力とユーモアが
宿っている彼らと目が合うたび、心がほどける。
子どもの健康を祈る「すすきみみずく」
大きな瞳とすすきの穂の素朴なバランスが愛おしい
人生の折に触れてひっそりゆっくり集めていきたい


私の中に残った物差し。その眼で、島の生活と郷土玩具を見つめた旅の記録です。

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