人はいつ【風まかせ文芸部 / 鬼】
人はいつ、鬼になるのだろう。
それは、怒ったときでも、誰かを傷つけたときでもない気がしている。
期限が切れたからと、食品を迷いなく捨てたとき。
前例がないからと、案を切り捨てたとき。
そうした合理的な判断や選択であれば、納得できるし説明もつく。
本当に鬼になる瞬間は、その判断に小さな違和感を覚えたときに垣間見えるのではないだろうか。
「まあ仕方がない」と気づかないふりをしたとき。
「常識的に考えて」と自分に言葉をかぶせて進んだとき。
そしてそれらが、あとから思い出せなくなるとき……。
そんなとき、心に人ならざる者の炎がくすぶるのかもしれない。
* * *
彼女は、ベッドの上でスマートフォンを伏せた。画面はすでに暗く、部屋には機材の待機音だけが残っている。
「プロなんだから、ちゃんとやれよ」
「義務でやってるだけで、楽しんでないよね」
頭に他人の声が流れる。少し有名になれば、もはやエゴサは精神を蝕む毒でしかなかった。ポストを表示させるのに勝手に動いた指をうらめしく思いながら、ため息とともにSNSを閉じる。言いようのない思いで、胸の奥はざわめいていた。
言い返したいことなら山ほどあった。自分は、楽しんでやっているだけ。好きでやっていなければ、こんなに続けていない。
彼女は今も夜職の傍ら、ゲーム配信や雑談配信を続けていた。配信活動をはじめてから、早数年になる。
最初は、チャットに流れる文字と雑談するだけの配信だった。初見のゲームを遊び、笑って、終わる。来れる人だけ、見たい人だけが来る場所。
ある日、少し有名な配信者に声をかけられて、一度コラボ配信を許したのがはじまりだった。そのときの軽妙な掛け合いの場面がバズり、ネット民の目に留まって一気にフォロワーが増えた。
人が増えるということは、同時に厄介ごとも増えるということ。彼女の配信スタイルはもともと、大勢のファン層に向けたものではなかった。その温度感のズレゆえか、煙たがり、叩く声が多く聞こえてくるようになった。
もちろん、お金をいただいている分、責任が発生するのはわかる。
──でも、一生懸命やっている人間に対して、攻撃して貶める意図はなに?
有名税という言葉を盾に、人を攻撃する愉悦を覚えた化け物が今日も彼女に絡んでくる。その手触りも生活も、どこから来たのかもわからない声。
同じ人とは扱われていない。人を人として扱えない者を、人とみなすことができるだろうか。
エゴサのサはサーチのサ。
ファンサのサはサービスのサ。
レスバのバはバトルのバ。
フォロバのバはバックのバ。
似たような並びの言葉の中で、その意味や境界は曖昧だった。
ファンの感想なのか、アンチの批判なのか。深読みするほど、その見分けもつかなくなってくる。正当がどこまでか。どこからが過剰か。
彼女は疲弊して、深く考えることをやめた。
* * *
立ち止まっているうちなら、きっと人は戻れる。
この言い方でよかったのか。
別のやり方はなかったのか。
そうやって迷い、悩み、感情を引き連れたまま言葉を選ぶ人は、まだ人の側に「なにか」が残されている。
違和感があった。けれど流された。
評価されることを優先した。信念を後回しにした。
判断が早い。迷いがない。
その瞬間、人は境界を越えるのではないか。
鬼は、感情的にならない。
むしろ冷静で、常識的で「大人の対応」をする。
そうなったころ、選択は驚くほど軽くなる。
罪悪感は薄れ、よく眠れるようになる。
正義感ではなく、安心感がそこにある。
彼女は今日も、画面に並ぶコメントを眺めている。
「口が悪くて品がない」
「差別ととらえられかねない発言だ」
「撤回しろ」
正しそうな言葉が、並んでいるように見える。しかし、純粋な目で見つめ返す視線は、そこにはひとつもない気がした。
これは善意か、攻撃か。彼女からは区別する気力も失われている。マウスを動かすと、クリック音が、夜の部屋に規則正しく響く。
* * *
彼女は気付けば無言で、ミュートとブロックを繰り返していた。
「こいつらが悪い」
「私は頑張ってる、邪魔するな」
「話を聞く必要もない」
配信をはじめたころよりも、機材は少し豪華になっている。マイクもパソコンも、キャプチャーボードも。
夜半、クリック音だけがカチカチと断続的に部屋に響いている。
アンチコメントがまた、今日も多数つけられていた。捨てアカを作って転生してまで、亡者のごとく彼女にすり寄り群がってくる。
ぞわりと、背中を冷やすものが走る。こいつらは、どこから湧いて出る。こいつらを消さないと、安心して配信が続けられない。脳を貫かれているような強い痛みが引いていかない。きれいな朝を、迎えられない。
なんのために、戦っているのか。なんのために、この作業をしているのかもわからない。
マウスを動かしたとき、手がぶつかって傍らにあった小瓶が倒れる。中から、いくつかの錠剤が転がって、机の下に滑り込んでいった。
拾う気にもなれず、彼女は椅子を少し引く。画面に視線を戻すと、まだ処理していない名前がいくつも残っている。
部屋は静かだった。もう一度、その手はマウスをとらえる。
違和感の覚えた地点を、彼女はもう思い出せなくなっていた。
※以下の企画に参加させていただきました。
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