静かな処理【創作】
「こんなに俺は頑張っているのに……。」
それは、ほとんど独り言のように、いつも胸の内で繰り返している言葉だった。実際に声に出したことはない。このあとは大抵、「なんであいつらばっかり」に続く。
俺は部署横断の短期プロジェクトをいくつも担当していて、常に次の案件が控えているような状態だった。カレンダーも打ち合わせ等でほぼ埋まっていて、隙間を縫って書類作成を行っている。
同じ職場には、俺ほど何もしていないのに、平然と定時で帰る人間がいる。
あれで同じように給料が出て、生活が回っているのだから、世の中は不公平だ。
たとえば、事務の島本。彼女は古参だがいつも静かで、全体会議ではほとんど発言しない。存在感も薄い。正直、何をしているのかよくわからなかった。
一方で、同じ事務の高瀬は違う。
会議では要点を押さえ、仕事も早い。効率重視で、無駄なことをしない。俺は彼女のやり方を、内心では評価していた。
ただひとつ、理解しがたいことがあった。なぜ高瀬は、あれほど島本を手助けするのか。年のころは同じくらいだが、高瀬が島本よりもずっとあとに入社していたから、後輩意識がどうしても強いのだろうか。
島本は要領が悪い。少なくとも、俺の目にはそう映っていた。高瀬がついていなければ、もっと仕事が滞るだろう。なのに、高瀬は何も言わず、当たり前のように支えている。
ワンフロアに複数部署が同居しているこの空間で、俺の部署は、中央の目立つ場所に位置していた。事務の島は壁際にあり、書類やPC画面の中まではもちろん見えないものの、そのように動向で見える部分もある。
──放っておけばいいんだ、頑張っていない奴なんか。
そう、心の中で毒づいていた。
俺は、社内外含め研修には必ず参加するし、会議でも積極的に発言する。トラブルがあれば、誰よりも早く声を上げ、解決を促す。フロアでも最後の方まで残って、仕事を終わらせて帰っている。
「助かります。」
「ありがとうございます。」
そう言われることも多い。
俺はやっている側……やってやっている側だ。俺がフロアを、仕事を回していると、信じて疑っていなかった。
* * *
その日は、どうしても休みを取らねばならなかった。相続関係の手続きで、実家に帰る必要がある。体調不良以外で休みをとるのは、なんとなく屈辱的な気分だった。
俺は残業をして、丁寧に引継ぎ資料を作成した。
抱えている各プロジェクトについての進捗状況の詳細。拾われそうな案件についてのメモ。会議で議題にすべき項目のまとめ。想定されるトラブルと、その際の対応手順……。
元々作成済の内容もあったが、今回あらためて細部を更新し、諸々をまとめなおした。深夜近く、社内チャットに資料を流して共有する。ここまで丁寧に引継ぎをして休みを取る社員もそうそういやしないだろう。
俺は印刷した資料を机の上で読み返し、最後に両手にとって眺めた。その束を、同じ部署の机のひとつにそっと置く。黄色い付箋を貼り、簡単なメモを書いた。
「緊急でなければ、戻ってからまた説明します。」
机の主は、もう帰っていたが、それで十分だと思った。
俺は満足してフロアを退室した。
「そうだ。俺は、ここまで努力している。」
* * *
休み明けの朝、出社してまず自分の机を確認した。特に変わった様子はない。緊急性の高いトラブルはなかったのだろう、と胸をなでおろした。
コーヒーを入れてから、何人かに声をかけた。
「昨日、一昨日、どうでした?」
返ってくる答えは、どれも似たり寄ったりだった。
「特に何もなかったですよ。」
「静かでしたね。」
「定時で上がりやすかったです。」
拍子抜けするほど、平坦な報告だった。
引き継いだ案件についても尋ねてみたが、「必要なところだけ見ました」「大丈夫でしたよ」と、曖昧な返答が多い。俺の資料について、具体的な話が出ることはなかった。
少しだけ、胸の奥に引っかかるものがあったが、言葉にするほどではない。
午後、会議があった。俺が休んでいた間に起きた出来事の共有が議題に含まれているはずだった。
だが、会議は想像以上に短く終わった。いくつかの案件は、すでに処理済みとして簡潔に報告されるだけだった。
「問題ありませんでした。」
「現場で対応しています。」
誰も声を荒げない。進捗確認も、必要最低限で済んでいく。
休みの間にトラブルが一件あったことを、あとから聞かされた。だがそれは、会議に諮られることもなく、部署内で淡々と処理されていたらしい。
「緊急性は低かったので。」
そう言われて、それ以上追及する気にもなれなかった。どこかやりきれない思いだけが、俺の中に残されていた。
* * *
その日用事があって、俺は事務の島に立ち寄った。若手社員が、少し困った顔で立っている。
「すみません、島本さん。押印決裁の様式って、どこでしたっけ。」
島本マリが、作業しながら顔だけを向けて、椅子から立ち上がることもなく答える。
「ああ、それならNASの共有フォルダの──。」
一瞬だけ考えてから、続けた。
「ファイルのパス、あとで送っておきますね。」
数分後、その社員は礼を言って戻っていった。大げさなやり取りはない。だが、問題は確実に解消されている。そのやりとりのあと、事務島の違う方向から声が島本にとんだ。
「マリ。さっきの電話の件なら、私がやっておくから。そっち集中して大丈夫よ。」
「ひぇ~、麗香ちゃん助かる。」
わたわたと焦り顔で慌てて作業しているようだが、島本の手は止まっていない。高瀬のフォローのタイミングも、息が合っていた。
後から聞いた話では、島本が休みの日のほうが、細かい問い合わせが増えるらしい。
「あれ、どこでしたっけ?」
「前どう処理しましたっけ?」
そんな声が、あちこちで上がるという。
仕事の要領が悪い。頑張っていない。それが俺の島本への評価だったが。間違っていたのだろうか。
* * *
ふと、引継ぎ資料のことを思い出した。
同僚の机を見ると、資料はそのまま置かれていた。黄色い付箋も、貼ったままだった。
読まれた形跡はない。というより、読まなくても困らなかったのだろう。
俺がやらなければ、別の誰かが拾って、やる。もし拾われなくとも、自然と他のメンバーに分担されてゆく。
会議で大きな声を出さなくても、仕事は進む。俺がいなくても、すべて何事もなく回っていた。
「……俺は本当に、頑張って仕事をしていたのか。」
もちろん声は出していない。そうやって思った瞬間、言葉の続きを考えたくなくなった。俺は、熱心に「仕事をしている自分の姿」を守っていただけだったのかもしれない。
自席のコーヒーは冷めて、冷たくなっていた。一気に飲むと、喉をひんやりとした苦味がすうっと通っていった。
* * *
引継ぎ資料を手に、シュレッダーの前に立つ。俺は使い方がわからず、島本に声をかけた。彼女はさっと飛んできて、迷いなく操作パネルを押した。
「この機種、よくないですか?」
長押しで電源がつき、使用可能になる。
「新古品ですけど、クロスカットで性能いいんですよ。値段の割に。」
そうなんだ、と答えながら、俺はそのことを初めて知った。そして、あとで知ったが、事務部署内の経費で彼女が選定して購入された機器だという。このとき島本は、そのことには触れなかった。
……仕事していたんだな。見えないところで。
俺は、教えてもらった手順で、資料を投入口に差し込む。乾いた音がして、紙が細かく裁断されていく。
手応えは、ほとんどなかった。
昔のこと。試験範囲を間違えて勉強したせいで、自信満々で受けたテストで手も足も出なかったのを思い出す。
「まーた、馬鹿やっちまってたかあ……?」
その言葉は、ぽつりと声に出ていた。裁断の音に紛れて、きっと誰にも聞こえていなかったと思う。
ダダダダダ、というクロスカットの乾いた音に紛れて、その意味だけが細かく裁断されていった。
※以下は関連作品になります。
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