シャワーのある家【風まかせ文芸部 / 選択】
これはまだ、大丈夫。こっちは、そろそろハイターに漬けた方がいいかも。
乾いた洗濯物を鼻先に近づけながら、その匂いを確認する。実家にいたころからの、いつもの癖だ。
この賃貸のマンションは、彼の職場から近いという理由で選ばれた。私としても、近所にスーパーもドラッグストアもあり、駅が近い。そこまで家賃も高くないとあって、それなりに気に入っている。
自然がなく、家の前の通りを車が多く通るのがややマイナスかな。
大きな不満のない生活。トイレは温水洗浄便座。風呂場のシャワーの水流の強さだって、悪くない。
絆の証としての指輪は、ふたりで選んで買った。あとは、籍を入れるだけ。彼との生活は、すでに夫婦になる前提で進んでいる。
洗濯物をたたみ終え、ドラム式洗濯機のフィルターを軽く掃除する。苦手な掃除も、彼のすすめではじめて触ったAIのチャットに相談することで迷う時間が減った。
午後からの仕事も。リモートワークで、身体への負担は少ない。
すべてが便利で、合理的で、効率的。そんな生き方ができていた。生活の判断も、仕事の裁量も。それなのに、私の胸にはどこか落ち着かない感情がいつも付きまとっていた。
* * *
ざあっと、遠くから木々を揺らす音が流れてくる。
深い深い、緑のにおい。胸いっぱいに吸い込むと、細胞のひとつひとつがぽつぽつとざわめいて立ち上がった。やや湿り気のある夏の空気は、涼しげな風が吹き飛ばしてくれる。
父方の田舎の一軒家は、そんなところだった。
小学校三年生のときだ。しばらく過ごしたあの日々が、私の生活のランドマークであり、自然に溶け込んだあのパノラマが、私の原風景だった。今になって、そんなふうに思う。
あとからあらためて聞いたときには、驚いた。あそこに私がいたのは、たったの二週間だという。
玄関を開けたときの、ひんやりした土間の空気。時間差で流れ込んでくる、少し埃っぽい畳の匂い。それこそ、上がり框の脇に置かれた口の広いガラスの花瓶や、歩くたび足の裏でみしりと鳴る廊下の音まで。
四半世紀経った今もなお、あれほどまでに鮮烈に、鮮明に胸に戻るこの記憶が、たかだか二週間の期間で脳のしわに刻み込まれたとは、到底考えられなかった。
何より、向こうでの記憶よりも衝撃的だったのは、都会の実家に戻ったあとのこと。
私は、強い恐怖と不安を覚えたのだ。
シャワーのある、その家に。
山と山とに囲まれた、あの田舎の家では、五右衛門風呂でシャワーはなかった。畑で採れた農作物。最低限の設備。それで十分暮らしていけた。大人がいたからこそだとは思うけれど、不便という言葉は見当たらなかった。
田舎から戻る前には、何の気なしに使っていた実家のシャワー。それが放射線状に水を吐き出すのを見て──。
この「快適さ」に慣れてしまったら、二度と戻れなくなる。
まるで、肺いっぱいに冷たい空気を閉じ込めたような。そんな息苦しさが、私を襲った。
便利さも、効率化も。選択肢を増やすようで、同時に「戻る場所」を奪うものなのではないか。
いつしか、そんな考えが生まれていた。それは錆びた鎖のように変化し、澱となって、今も私の心を捉えて──離してくれない。
* * *
彼と住むこの家は、地図上でみても、雰囲気でみても。ちょうど、田舎と実家との中間くらいに位置していた。
この生活にも、不安な感覚は付きまとっている。
便利だからだろうか。快適だからだろうか。自然が少ないからだろうか。それとも、結婚して籍が生まれるからだろうか。
スマホのタイマーが、火にかけた鍋の調理が終了したことを知らせる。
私は火を止め、窓際に向かう。カーテンを開け、夕焼けの光を感じてすぐに閉めた。窓の外の空は、きれいだ。私の心だけが、今もどんよりと曇っている。
……あの人に、相談してみようか。
時計を見ると、もうすぐ彼が仕事から帰る時間だった。
* * *
「怖い? 結婚すること?」
彼はネクタイを外しながら、私の方に来て座った。相談したい、というと、彼はいつも、真剣なまなざしで目を見て話を聞いてくれた。付き合う前、職場が同じだったころから、ずっとそう。
「生活が変わって、慣れてしまったら──戻れなくなるのが怖いの。」
今、感じている不安を、私は包み隠さず話した。付き合いが長くとも、考え方は人によって全く違う。うまく伝わるか、自信がなかった。
便利な生活に慣れてしまうこと。選択肢が増えて、かえって窮屈になってしまうことも。
彼は、眉を難しいかたちにしたままで、私の言葉に耳を傾けてくれていたように思う。そして顎に指をあて、少し考えてから、笑って言った。
「でも俺は、ふたりで生きるって、選択肢を失うことじゃなくて、視点が増えることだと思うんだよな。」
「それって、どういうこと?」
彼は私のことを、諭すようなやさしい目で見つめていた。
「ひとりより、倍楽しめるだろ。ひとりあたり人生が二本分、並ぶことになるんだぜ。」
「なあに、それ。」
やっぱり楽観主義だ。不安症の私とは、完全には相容れない。
「そんなの、屁理屈じゃない。」
「そうかな? まあまあ真剣なんだけど。」
わかってる。嘘が苦手だし、本気で答えてくれている。相談して、明快に問題解決することは少ない。それでも──その笑顔を見て、なぜだか心がほどける感覚があった。
ずっと前から、いつもそう。
彼の口からは、私とは全然違う考えが飛び出して。彼は笑っておどけて、うやむやになる。
でもそこに、いつもつられて笑ってしまう自分がいた。それが心地よく感じる理由もわからないまま、ここまで私は、自分の意思でこの人と一緒にいることを選んできたんだった。
結婚すれば、夫婦という関係になれば、きっと変わってしまう。かつて「シャワーのある家」を怖がったのと同じように。
でも、今あるのは、不安だけじゃない。
* * *
洗濯機の音を、今日も聞きながら。そのリズムとともに、考える。
私の不安は、消えたわけじゃない。いつだって安心は、絶対的なものではなく、失うかもしれないところにある脆いものだ。
彼との会話で感じた気持ちはたぶん、ひとりで慣れる生活と、ふたりで慣れていく生活の違いからくるものだ。ふたりなら、全部をひとりで引き受けなくていいから。
慣れてしまって、戻る道を静かに消していっても。ゆるやかにつながる道や、未来の形を、一緒になって探してくれる人がいる。
そう思えるだけで、なんだか、洗面所にただよう洗剤の香りが軽い。
窓の外には、雲の隙間に青が見えた。完全には晴れていないが、私は乾燥機のスイッチを止めた。
久しぶりに、外干しすることにしよう。取り込むかどうか、あとで決めればいい。
※以下の企画に参加させていただきました。
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