寝室と会場の音【創作】
机の上には、発表会のプログラムが一枚。印刷された名前が、ひとつの段に並んでいる。自分の名前と、そのすぐ上に、彼女の名前。
間宮理子
香月美緒
この順番を見たとき、胸の奥で小さな音が鳴った気がした。
あれは小学校最後の年の、「六年生合同合唱」のピアノ伴奏。思うように弾けなかった後悔が、いやでも思い出される。
──でも。
夜の寝室は、静まり返っていた。時計の音が心臓の鼓動と重なって響く。
何度もめくったせいで、譜面の端は波打っている。音符たちは紙の上で少しかすれて、薄くなった分、もう私の一部みたいになっていた。
──今度こそ最後まで、自分の音で。
電気を消し、真っ暗な部屋で鍵盤の並びを指先でなぞる。音は出ない。
けれど、頭の中には旋律が確かに流れていた。
目をつぶると、水色のワンピースを着た女の子がこちらを見て立っていた。それは小学校のころ、私のお気に入りの服だった。
* * *
翌朝。カーテンのすき間から、夏の光が差し込む。鏡の中の自分は、少し背が伸びていた。手のひらの小さなタコが、努力の証のように光っている。
「応援、行くからね。楽しんでおいで。」
母の声が台所から聞こえる。うなずいて、靴ひもを結ぶ。手が少しだけ震えていた。
会場は、市民会館の大ホール。広い天井、椅子の列。控室には、出演者の順番が貼り出されている。自分のひとつ前に、彼女の名前があった。
──ついに、同じ舞台に立つんだ。
胸の奥で、静かに何かが跳ねる。
* * *
舞台袖。理子の演奏が始まる。
最初の一音が鳴った瞬間、空気が変わった。音が、水面に落ちる雨のように広がっていく。柔らかくて力強くて、聴いているだけで心が静かになった。
──やっぱり、すごいな。
理子の音は、譜面から少しこぼれていた。テンポはわずかに揺れ、拍の合間に「呼吸」がある。その不規則さが、まるで生き物みたいに感じられた。
前に、理子が練習室で即興をしていたときのことを思い出す。決まった曲でもないのに、音が風のように流れていた。
──私の音は、正しい。テンポも、旋律も。でも、まだ生きてはいない。
その思いが、胸の奥でそっと疼いた。
演奏が終わると、拍手が波のように押し寄せた。ステージから戻ってきた理子が、息を整えながら小さく笑った。
「次、頑張ってね。」
その笑顔の奥に、ほんの少し火がともっているように見えた。深呼吸をする。あの音のあとで弾くのは、正直、怖かった。
──逃げない。ぜったい。
* * *
名前を呼ばれる。
まぶしい照明。黒いピアノの表面に、白い天井が映り込んでいる。ペダル確認の際、足元の補助台が視界に入った。体育館の記憶が一瞬よぎる。でも、私にはもうこれは必要ない。
最初の音を出した瞬間、寝室の静けさがよみがえる。心臓の音とピアノの響きが溶け合っていく。
途中、ほんのわずかにテンポが揺れた。あの日の体育館、遠くで鳴った咳払いが記憶に戻る。
焦りが胸をかすめた瞬間、ふと理子の音を思い出す。あの「揺れ」の中には、呼吸があった。
──焦らなくていい。音にも、休む瞬間がある。
私は、息を整えて鍵盤に手をのせる。焦らず、音と歩幅を合わせて進む。心拍音は、私の胸よりずっと遠いところで響かせておけばいい。ペダルを踏む一瞬、足に強く意識を持った。
誰もいないはずの鍵盤の向こう。水色のワンピースの裾が、視界の端で揺れた気がした。
私は、見なかった。前へ前へと音が進んでいく。もう、転ぶことはなかった。
最後の和音。指を離すと、ホールの空気が震えた。
静けさのあと、拍手が一気にひろがる。客席の中で、先生がゆっくりとうなずいた。その隣で、理子がまっすぐこちらを見ている。
私は、小さく笑った。
* * *
客席のざわめきが遠のいていく中、理子が歩み寄ってきた。汗で前髪が少し額に貼りついている。
「……すごかった。美緒ちゃんの演奏。」
その声は小さいけれど、まっすぐだった。私は少し照れくさくて、うつむいてしまった。
理子は、ほんの一瞬だけ口を結び、それからふっと笑った。
「正直、なんか悔しかった。でもね、聴いてたら……なんか、嬉しくなったの。『ちゃんと、美緒ちゃんの音だな』って思って。」
その言葉が胸に響いて、私は小さくうなずいた。あの日の自分が、少し遠くに見えた気がした。今なら、あのときの音も、やさしく受け止められる。
「ありがとう。私も、理子ちゃんの音、好きだよ。」
夕方の光が、長い影を落とす。ふたりは並んで歩き出した。競い合うためじゃなく、同じ音を目指す仲間として。
* * *
発表会から帰ると、母が玄関で待っていた。
「おかえり。」
笑顔の奥に、少しだけ不思議そうな色があった。
「なんだか、プロみたいだったよ。」
ぽそっとつぶやくその声には、驚きと、安心と、少しの誇りが混ざっていた。
私は少し照れくさくなって、「ありがと」と笑った。
机の上には、朝に見たプログラムがまだ置かれている。その紙の上で、並んだ名前が柔らかく照明に光っていた。
昼に見たときよりも、そのふたつの名前の距離が、少し近く感じた。たぶん今は、競っていない。音でつながっている。
鍵盤に手を置き、音を出さずに心の中で弾く。ホールで響いた音と温度が、まだこの部屋の中に残っている気がした。
──大丈夫。ちゃんと弾けたよ。
あの日の自分にそう伝えながら、私はそっと、目を閉じた。
※以下は関連作品になります。
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