最初の一行【創作】
女子寮の入寮書類は、春になると段ボールで届く。家計申告書、住民票、保証人の署名、そして作文。
作文は、正直なところ、私はあまり読まない。というより、読む必要がない。審査に影響がないからだ。
やめたらいいのに。こんな、意味のない手続き。
ただ、その日の一枚は、ホチキスが外れていた。クリップで留め直そうとして、最初の行が目に入った。
「私には、宝物がふたつあります。」
続きに、文房具セットとボードゲームのことが書いてあった。どちらも、寮の選考には関係のなさそうな話だ。
私は派遣で、この寮で三年働いている。でも、誰の宝物も知らない。
履歴書に書けることはある。でも、書けることしか、持っていない。
作文をクリップで留め直した。書類選考や公募の応募文章ではない。誰が選ばれるかも、私にはわからない。
書類を束に戻す前に、他の入寮希望者のもいくつか覗いてみる。おばあちゃんとの思い出を書く者。片親だからと、父親のことを書く者。
なんだかそれらと同じようで、また違う作文だ。
日記だって三日続いたためしがない私に、人生の一部を書け、と言われて。こんな風に、書けるものだろうか。
迎える寮生や、入る寮生にすれば、重要な分岐点なのかもしれない。でも、私は違う。仕事の過程で、ただ他人の人生に、ちょっとすれ違うだけ。
顔写真と名前と家族構成。それらを見た程度で、なんとなく、人柄まで見た気になっていた。
寮には、自治会がある。掃除当番、備品管理、行事係。たいした仕事ではないけれど、持ち回りで役が回る。
たいていの人は、文句を言いながらもやる。でも、ときどき揉める。
前に一度、留学の話で大揉めになったことがある。
半年だけ海外に行くと言った寮生がいて、その部屋をどうするかで自治会が割れた。
「空けるなら次の人を入れるべきだ。」
「戻る場所がなくなるのはおかしい。」
最後には親まで出てきた。あの日職員室のテーブルに並んだ、紙コップのコーヒーは冷めきっていた。
寮では、共有スペースの電子レンジひとつで揉める。温め時間のこと、たったそれだけで三人が口をきかなくなった。
でもこの子は、たぶん、そういう揉め事を起こさないのではないだろうか。
この作文で何かが決まるわけではない。入寮は、家計の条件でほぼ決まる。
段ボールを閉じる前に、私はもう一度だけその一行を読んだ。
「私には、宝物がふたつあります。」
その子が入るかどうかは知らない。私に決める権限もない。
クリップは、ホチキスで留めるよりも少しゆるい。それでも私は、その作文を、いちばん上に戻した。
※以下は関連作品になります。
いいなと思ったら応援しよう!
書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。