二月の、社員食堂【風まかせ文芸部 / チョコ】
とある食券制の社員食堂。それが私の職場だ。
メニューは麺類、カレー、日替わりの定食A、Bくらいしかない。たまに事前告知をしたうえで、期間限定の特別メニューをやるくらい。
食券機を見に来る業者さんもいるが、基本的な仕事仲間は、男性職員と、若い女性がひとりずつ。私とあわせて三人で、いつものピーク時を乗り切る。
二月上旬。本格的に寒い日は、廊下側から離れた温かい席から順に埋まっていく。年度末を控え、みなどこか食事の速度も速くなっている気がする。
この会社では、表向きはバレンタインが全面禁止になっていると風の噂で聞いた。理由は、女性職員への負担・暗黙の強制が問題になったためだとか。
各部署での仕事環境がどうなっているかはわからない。チョコ禁止だと、どうなのだろうか。気が楽なのか。それとも少し寂しいのか。
もちろん、表立って禁止されているだけで、陰でこっそりチョコのやりとりはされていたのかもしれない。
私は、浮ついたイベントからは縁遠い性分だった。チョコを手作りしたのなんて、小学校のときくらい。あのときは、好きだった男子が母親と一緒にホワイトデーのお返しに家にきて、なんだかがっかりした記憶がある。
それ以降は、されるまま、流されるままに。時勢のイベントを、いたりいなかったりするパートナーと、乗り越えたり沈んだりしてきた。
カレンダーをちらと見ると、今日は二月九日。毎年バレンタインという日を、お店でチョコが並びだしてから思い出す。そういえば、近所のスーパーでも売り出しを見た気がする。
今年は実家にも帰らず、餅の入ったお雑煮も食べていないし、七草がゆも、節分豆に恵方巻だって食べなかった。家にはテレビもないし雑誌も読まない。職場の往復と、スマホでの動画サイト視聴ばかり。いつしか、私から「季節感」という概念がなくなっている。
* * *
朝、ロッカーで白いエプロンを広げ、首にかけて腰ひもを結ぶ。鏡を見るのはちらっとだけ。髪をまとめて、手洗い場で石けんを泡立てる。指の間、爪の先、手首まで。「手洗いの作法」と壁に書かれた紙は、端が破れて今や誰も見ていない。
まな板と包丁の準備。水を張った鍋を火にかけ、タイマーをセットし、決まった量の調味料をはかり、決められた順番で入れていく。
もう、考える必要がない。手が勝手に動き、体が次の作業を覚えている。今日が何日か、何月かを意識しなくても、昼はやってきて、ピークは過ぎ、返却口から皿は返ってくる。
お客の流れがゆるやかになり、たくさんの食器が流しの海を漂う姿を見て、ふと思う。
ここにいる私は、季節だけでなく自分の気持ちも、このキッチンに預けてしまっていたのかもしれない。
ピピピというキッチンタイマーの音が、麺の茹で上がりを知らせる。私は急いで丼を手に取り、湯切りをして盛り付けた。
その日の、休憩時間。社食の隣にある小さな売店でも、レジ横にはチョコレートが積まれていた。赤やピンクの箱が目につくが、私が手に取ったのは、いちばん安い板チョコだった。深く考えていなかったと思う。
意外と高いんだな。最近食べてないな。そのくらいの気持ちで、一枚かごに入れた。店員の顔見知りのおばちゃんと、二言三言の雑談を交わす。日常に埋もれてすぐに忘れてしまうような、そんな程度の会話だった。
* * *
その日、私はカレーの当番だった。定型で作られた味付けのカレーに、日替わりの具材を別で足して仕上げる。ウインナーだったり、魚のフライだったり。今日は別準備された鶏肉だ。思えば夏のころには、夏野菜を乗せることもあったっけ。
季節感。以前頭に浮かんだ言葉が、もう一度降りてきた。
ふと、思いつく。この職場の冷蔵庫には、前に買った板チョコがある。あとで食べようか、暖房で溶けちゃうし、と思って、入れた。
私はいつもの具材を取り出すように自然に、足元の業務用冷蔵庫の扉に手をかけた。
手つきは自然。私はカレーの寸胴に、板チョコを割り入れた。手袋ごしでもわかるひんやりとした触感と、割れるときの気持ちの良い音。
食材の価格高騰で、メニュー全体の価格を上げざるをえなかった今も、毎日通ってくれている社員に向けた、いわば感謝の気持ちだ。そういえば、昼どきにカウンター越しに見る顔の多くは、スーツ姿の男性が多い。
同僚にも、特に何も言わなかった。客への告知も、もちろんなし。
毒を盛るのであれば問題だが、今日の味付けがほんの少し、変わるだけ。担当の裁量の範囲だろう。以前に家でも一度試したが、チョコをカレーに少量入れると、深みが増しておいしくなる。加えたチョコは、かきまぜるうちにあっという間に溶けてなくなっていった。
私はこの日、カレーが注文されるたび、ちらっとそのお客の顔を覗いている自分に気づいていた。
十四時過ぎ、カレーはほとんどなくなった。しばらくすれば、夜の部まで一度シャッターを下ろす時間だ。
食器の返却口に、ひとりの男性社員がやってくる。ピーク時を避けてこの時間に来ては、毎日カレーを頼み、窓際席に座る常連さん。
「ごちそうさま。」
その声が、いつもと少しだけ違って聞こえた。
気のせいかもしれない。でもまあ、それでよかった。
※以下の企画に参加させていただきました。
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