孤独の半分【風まかせ文芸部 / 半分、過ぎて】
契約したのは、ただの住む場所だった。
毎月一定の額を払う代わり、そこで生活する権利を借りるだけ。
コンビニで物を買うのだとわかりやすい。金銭と物品の交換。自分のものになった物は、消費も譲渡も、自由にできる。
けれど賃貸の概念は、僕の中でどこか宙に浮いていた。契約書や細かい注意事項を読むのは嫌いではない。ただ、端まで読んだところで、今の自分の気持ちを代弁してくれている項目はなかったように思う。
仕事から帰ってきて寝るまでの時間は、できるだけ静かに過ごしたい。テレビやパソコンはあえて置かず、電子書籍を読んだり、動画を見たりして過ごす日々。ミニマリストであるという自覚はないが、タブレットひとつとスマホひとつで回る今の生活スタイルが理想だった。
スーパーの特売に出会えて、食費を浮かせられると、その日はほんの少しだけ心が華やいだ。レパートリーが少ない僕の自炊は、一口コンロと電気ケトル、電子レンジがあれば十分だ。
外は車の通りがあるため、いつも窓を開けるのは少しだけ。それも、寝るときはイヤホンか耳栓をして、音をできるだけ遠ざけるようにしていた。
結局朝七時から、夜二十時頃までは仕事で外に出ている。家で過ごす時間は、一日の半分にも満たない。それでも、通帳から引かれる数値は毎月定額。それを見るたび、残高が削られる音が、空気と一緒に窓から逃げていくようだった。
* * *
休みの日の昼、家に帰ると引っ越しサービスのトラックが止まっていた。セキュリティ扉は開放され、青い養生シートがエレベータまで続いている。階段を使おうとエレベータの数字を見ると、僕の借りている三階で止まっていた。
そういえば、隣室は空いていた気がする。階段をのぼりながら、そんなことを考えていた。
三階まで来ると、踊り場には段ボールがいくつか積まれていた。青い作業着の男が「すみません」と体をずらし、その横を通った。通りがかり、いちばん上の箱から光が覗いていることに気づく。それは、透明なガラスの灰皿だった。
部屋の前まで来ると、隣の玄関が開いており、中から女が出てきた。年はたぶん自分と同じくらいか、少し下。髪は後ろでまとめられていて、シャツの袖を肘までまくっていた。
目が合ったので、軽く会釈をした。向こうも少し遅れて頭を下げた。表情を見たのは、一瞬だ。けだるそうな雰囲気なのに、眉に妙に説得力があるのが印象に残った。
それだけだった。
鍵を開けて部屋に入ると、空気がこもっている感じがした。換気扇を強に切り替えて、窓を開ける。下の道路の車の音が、熱と一緒に少しだけ上がってくる。遅れて風がカーテンを揺らし、さら、と音を立てた。
隣に人が入るだけのことだった。彼女もただ、生活する権利を金銭で借りただけ。建物の空気が変わった気がしたけれど、気のせいだと思った。
* * *
最初にその匂いがしたのは、その週の水曜だった。夜十一時過ぎ。風呂上がりに窓を開けて、ベッドに腰掛けたときだった。
汚れた甘さが鼻にまとわりつくような匂いが、ゆっくり入ってきた。
すぐにわかった。煙草だ。
僕は騒がしい音よりもずっと、煙草の匂いが苦手だった。思わずぴしゃりと窓を閉める。
別に、禁煙のマンションではない。ベランダで吸うのも自由だろう。けれど、今まで僕の「窓を開ける」「外の空気を入れる」権利は、誰にも侵害されないものだった。
彼女の「煙草を吸う」自由は、僕の不自由の上で成り立っている。閉めた窓ガラスには、彼女と挨拶したときとは違う僕の表情が映っていた。
部屋の空気から、煙草の気配が薄まるのを待ってから。その日は、イヤホンをつけて動画を流しながら寝た。
次の日も、その次の日も。同じくらいの時間になると、煙草の匂いがした。
毎回窓を閉めた。
一日にしたら五分とか十分とか、その程度のことだった。でもそのたびに、自分の、これまで決まったリズムで回っていた生活が少し削られていく気がした。
月の支払いは変わらない。彼女もたぶん、同じくらいだろう。それなのに、僕が窓を開けていられる時間だけが減っていく。
そういう損の仕方が、いちばん腹立たしかった。
* * *
二週間くらいして、二度目に顔を合わせたのはエレベータの前でだった。隣の女とは、お互い苗字も知らないままだ。
彼女はコンビニの袋を提げていた。半透明な袋の中に、缶チューハイとカップ麺、それから煙草の箱が見えた。
「あ」と向こうが言った。
同じ三階のボタンを僕が先に押した。それで、引っ越しの日に会ったことを思い出したらしかった。
「どうも。」
僕は言った。
「お隣ですよね。」
「そうです。」
沈黙が降りる。エレベータの数字だけが上がった。三階に着く直前、僕は彼女の袋を見ながら知っていることを聞いた。
「煙草、吸われるんですか。」
女は、僕の言葉の真意をはかりかねている様子だった。そして、少しだけこちらを見て言った。
「……ベランダで。あっ。煙、うちですよね。すみません。」
思っていたよりまっすぐな声だった。眉がほんの少しだけ下がっただけで、途端に女性らしい顔つきになったように感じた。
僕は反射みたいに手を振って、言った。
「いえ。大丈夫です。」
本当は何も大丈夫ではない。僕の生活を、彼女の生活が少しだけ浸食している事実があった。でも、わざわざ言うほどでもない気がした。
「気をつけますね。」
僕が扉の「開」ボタンを押していると、彼女はそう言いながら、ぺこりと頭を下げて先に降りた。
ひとり残されたかごの中で、「気をつけるって何をだろう」と少し思った。
結局、その夜も煙草の匂いはした。たぶん昨日までと同じ種類、同じ時間帯だった。
でも、少し匂いが違うように感じた。僕はこの日なんとなく、音を立てないようにそっと窓を閉じた。
* * *
一か月が経つころだっただろうか。煙草の時間が、だんだんわかるようになった。
火曜は遅い。たいてい一時を過ぎる。金曜は二回吸う。おそらく土日は休みで、その前の日は、少しだけ長い。
そして、雨の日は匂いがしない。たぶんベランダに出ないのだろう。
顔を合わせることはほとんどないのに、その生活だけが先にわかっていった。
今日は遅いな、とか。今日は帰ってないのか、とか。
別に、自分の生活が振り回されるほどじゃあない。その時間帯にそなえて窓を開けないようにすることはあったし、匂いがしてから時間を確認し、窓を閉めることもあった。その程度のことだ。
ただ、そういうことを考える自分に気づいて、少し変だと思った。彼女が
来てからだ。決まりきった生活パターンに生じた、わずかなひずみ。僕は、自分以外の生活に意識を向けてしまっていた。
ある夜。
寝ているとまた、煙草の匂いがした。癖で、スマホの時計を見る。休みの日とはいえ、夜中の四時ははじめてだった。
窓を閉めようとして、この日はやめた。どうせ五分くらいならいいか、と思った。
部屋の中に、風と煙草の匂いが混ざっていた。その向こうに、見えない誰かの息づかいがある気がした。お互い、感情も事情もわからないのに、壁一枚隔てただけの生活を、少しだけ共有しているようだった。
時間と権利で単純にはかれるものではなく、隣り合った生活ごと、うっすら重なっていくもの。
賃貸ってこういうことなのかもしれない。まどろみの中で、ふとそう思った。
* * *
十一月に入って、煙草の匂いがしなくなった。最初は、帰りが遅いだけかと思った。
でも三日経っても、五日経っても、しなかった。
日曜の昼、ポストの前に管理会社の紙が落ちていた。隣室退去のお知らせ。工事のため、一時的に共用廊下を使用します、と書いてあった。
部屋に戻る途中、隣のドアの前に段ボールが積んであった。彼女が引っ越してきたときと似た光景。時間が巻き戻ったのかと一瞬戸惑う。
ちょうど女が出てきて、目が合った。このときも、前と同じだった。
「あ、どうも。」
そう言った。このときも、苗字は知らないままだった。
「引っ越すんですね。」
僕が言うと、彼女は「はい」と笑った。理由は聞かなかったし、向こうも何も言わなかった。
そのまま会釈だけして、僕は扉を閉めた。遅れて、隣からも閉まる音が聞こえる。
それで終わりだった。
* * *
その夜、久しぶりに窓を開けた。当然ながら、煙草の匂いはしなかった。涼しい空気だけが入ってくる。
車の音は、相変わらず流れている。
以前と同じだと思った。窓を閉めなくていい。好きなだけ、開けていられる。それなのに、自分ひとりの気配が残された部屋は、妙に広かった。
テレビもパソコンも、なくていい。その気持ちは変わっていない。けれど、心の奥底をくすぐるような今の感情は、それまでの僕にはなかったものだった。
通帳から引かれる金額は、来月もきっと同じだろう。
契約したのは、ただの住む場所だった。
でも気づかないうちに、僕はその隣の生活に、自分の借りた場所を貸していたのかもしれなかった。
車の音が止まった。網戸のそばに、鼻先を近づける。夜風はきれいで、何の匂いもしなかった。それなのに、胸のあたりだけが妙に落ち着かなかった。
ふとポケットに財布を入れて、部屋を出た。何を買うかを決めていたわけじゃない。ただ、なにか甘いものでも飲みたかった。
階段を降りようとして、三階の踊り場で足が止まる。今はもう、そこには何も置かれていない。
あのとき段ボールの上に見えた透明なガラスの灰皿のことを、僕はなぜか思い出していた。
※以下の企画に参加させていただきました。
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