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手を振る猫のスタンプ【風まかせ文芸部 / 未送信】

母が入院してからというもの、私は母とのやり取りを、アプリのメッセージ機能で済ませていた。

たまにちょっとした文章を送る。文章を打つのが面倒なときは、文字を打つ代わりに、スタンプを押す。最後の方のやり取りは、スタンプが多かった。文章にしなくていい分、感情を削らずに済む気がしたからかも。

母がいちばんよく使っていたのは、猫がこちらを見上げて小さく手を振るスタンプだった。私も昔使っていて、母に「それほしい」と言われて、プレゼントしたものだ。

「おはよう」でも「ありがとう」でもない顔で。ただそこにいる、とでもいわんばかりに、手を振る猫。ちょっとしたメッセージとともに、そのスタンプがついてきた。

「ミケに会いたいわ」と母は言っていた。

ミケは、実家で今も飼っている猫だ。トラ猫なのに、ミケと名付けられたオス猫。もともと野良とは思えない、愛嬌のある顔立ちの猫だった。

母は、画面の中だけでもいいから、動いている猫が見たかったのかもしれない。

私も、母が入院したばかりのころは、よくミケの動画を撮ってはメッセージに添付して、送ってあげていた。

* * *

現代の医学では回復が見込めない難病を背負った母は、日に日に弱っていった。母とのやり取りは、少なくなった。

時勢上、「面会は家族の中からふたりまで」と決められていた。母の夫である父、長男である兄。ふたりに任せることで、私としては異存はない。

関係性が薄くなるのだから、私からもっと連絡してあげることはできた。でも、結果として回数は減ってしまった。

仕事でこういうことがあって嫌だった、とか。
今日はここに行って楽しかった、とか。

送ろうと思えば、メッセージを送ることはできたはずだ。

でも、「もって余命数年」と宣告された側にとって、娘からの連絡とはいえ、今を生きている人間の近況など、聞かされてうれしいものなのだろうか……と、ためらうようになってしまった。

面倒になったというよりは、きっと見ていられなかったのかもしれない。ちょうどそのころ部署異動のシーズンと重なって、仕事がバタバタしていたこともあり、それを言い訳にどこかで目を逸らしていた。

母からはちょくちょく連絡はきていたように思う。でも、感情がついていかずに、私は定型的な連絡を返していただけだった。

そして母は、亡くなった。

葬儀の日も、法事の日も。なぜか仕事が休みやすい時期と奇跡的に重なり、職場にも私の精神的にも、負担にならず有給取得ができた。

棺には、たくさんのお花と一緒に、用意しておいたミケの写真を入れてあげた。

* * *

母が亡くなってからも、そのメッセージルームは残っている。履歴をあとで確認したいなら、エクスポートして保存しておけばいいだけだ。

でも、履歴は消さなかった。

仏壇で、線香をあげながら思い出す。

そういえば、あの曲が好きだって言ってたな。そんなことを思い出しては、聞こえるようにスマホで曲を再生してあげた。

まだ入院する前、私がつくった肉じゃが、美味しいって食べてくれたな。そんなことを思い出しては、命日に肉じゃがをつくってお供えしてあげた。

日常が色を取り戻していくうちに、少しずつ。母のことを思い出しても、感情が止まって動かなくなる感覚は減っていった。

数年経ってからようやく……だったと思う。私は、亡くなってからの母に、近況報告のメッセージを送るようになった。

『今日は〇〇へ久しぶりに行った』
『今度のお盆は、夏季休暇とって家でゆっくりする』
『洗面所、汚れてたから掃除したよ』

もちろん、既読はつかない。むしろ、ついたら怖いというものだ。

あのとき、やり取りが少なくなってから。送ることをためらっていた気持ちが、ようやくほどけてきたのかもしれない。

ミケもだいぶおじいちゃんになっちゃったけど、ちゃんと生きている。私は、動画を送った。階段を一段ずつしか登れなくなったものの、元気だよって教えてあげた。

でもこのメッセージは、届かない。ちょっと調べてみたところ、このアプリは、電話番号で管理されているメッセージ機能だった。ただし、次に母と同じ電話番号を取得した人がいても、アカウントとは紐づけられずその人がこのメッセージを見ることはないらしい。

送信はされている。でも、受け取る人がいない。行き先のない荷物みたいに、どこかに置かれて、やがて消える。未送信と、ほとんど変わらない。

どうして私は、それでもメッセージ履歴を消さないんだろう。今も、送り続けているんだろう。自問しても、消さない理由も消す理由も、言葉にできなかった。

その日、私はソファに座って、母とのメッセージルームを開いたまま眠ってしまった。夕方の光がカーテンの隙間から床に伸びて、ミケがその上を歩いていた。

人の気配が少なくなった部屋で、ミケはときどき、思い出したように母のスマホが置いてあったあたりを嗅ぐ。

ことり、と小さな音がして、目が覚めた。ミケが私のスマホの上に前脚を乗せていた。画面を見ると、スタンプがひとつ。

あの猫のスタンプだった。

一瞬、息が止まった。胸の奥の気持ちが、音もなく持ちあがる。

──お母さんから……?

そんな考えが、理屈より先に浮かんだ。消したはずの可能性が、ほんの一瞬だけ戻る。

でも、すぐに表示を確認する。送信者は、私の名前だった。

自分のアカウントから送られていた。母の名前は、相変わらずそのまま、既読のつかない相手として画面の上にある。

こちらを見ていた、ミケと目が合う。
そうだ、と理解する。この子が送ったのだ。

画面を閉じることができず、しばらくそのまま見ていた。
今日送られた猫のスタンプが、こちらに手を振っている。

私はふと、自分のメッセージばかりが未読で積もりゆく中、さかのぼって、最後の方に届いていた、母のメッセージとスタンプを確認した。

『疲れていると思うけど、ソファで寝ると風邪をひきますよ』
『暑い日は、寝るとき冷房をつけてくださいね』
『今日は飲み会?おいしいもの食べてください』

そこにあるのは、私のことを気遣う文章ばかりだった。

ずっと、忘れていた。

私は、そのときの自分のことしか見えていなかった。こちらから送る内容も、自分のことばかり。胸の奥が、急にぐっと掴まれたように縮こまる。

母のメッセージにはもれなく、猫のスタンプが押されてあった。言うまでもなく、手を振る猫が一番多かった。

母が亡くなってから、私が送っているメッセージは、届かない。届くうちに、もっと送ってあげてもよかったかもしれない。亡くなってから曲を流しても、ご飯をつくっても、お母さんには届かないのに。

最後の、母からのメッセージ。

『台所側の前のどぶにはっはがたまってるともうのでか預けても』

側溝の、葉っぱの片付けのお願いだった。この時期はいつものことなので、私は「わかってる」としか返していなかった。

子どものことばかり心配して。何かを頼むのも、気が引けただろうに。きっと文字を打つのも大変なのに。ちっとも私は、考えてあげられていなかった。

ミケがみゃあ、と鳴いた。その声は、母の声とは似てもいないのに、部屋の空気を少しだけ柔らかくした。

私はソファに顔をうずめた。声が出ないように、しばらくの間。必死で息を押し殺し続けていた。



※以下の企画に参加させていただきました。


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財布野紐ゆるみ 書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。