『母性』を観て、母を許すことをやめた。
母を理解したら、傷はなくなると思っていた。
違った。
理解したぶんだけ、傷の輪郭がはっきりした。
『母性』を観ていて、何度も同じ場所で止まった。
母と娘、それぞれの記憶が違う場面。
同じ食卓。同じ言葉。同じ夜。
なのに、覚えているものが違う。
母が娘の首に手をかけて、「愛してる」と言う場面がある。
抱きしめているのか、そうでないのか。
わたしは母を見ていなかった。
娘の、力の抜けた肩を見ていた。
これ、知ってる。
わたしと母も、そうだった。
母は「ちゃんと育てた」と言う。
わたしは「ちゃんと壊された」と思っている。
どちらも嘘じゃない。
どちらも、その人の中では本当だった。
長いあいだ、わたしは「理解」をゴールにしていた。
母がどんな人生を生きてきたか調べれば。
母がどれだけ未熟な人間だったか知れば。
傷は消えると思っていた。
消えなかった。
母にも事情があった。それは本当。
でも、事情があったことと、傷つかなかったことは、別の話だった。
『母性』の母親を見ながら、思った。
この人にも、譲れなかったものがあったんだろう。
娘を愛していなかったわけじゃない。
ただ、愛し方の在庫が、娘の欲しかった形をしていなかった。
それだけ。
それだけのことが、一人の人間を何十年も規定する。
わたしは母を理解した。
でも、許すのはやめた。
わたしにとって「許す」は、痛みをなかったことにする言葉になっていたから。
理解と免罪は、別の作業だった。
母がどうしてああなったかは、わかる。
わかった上で、それでも痛かった、とわたしは言う。
この二つは矛盾しない。
矛盾しないと知るまでに、何年もかかった。
『母性』は、母を裁く映画じゃない。
娘を擁護する映画でもない。
ただ、二つの記憶を並べて置いていく映画だった。
どちらが正しいか、決めない。
決めないことが、一番誠実なやり方なんだと思う。
これはたぶん、母娘だけの話じゃない。
夫婦にもある。恋人にもある。
「あのとき、そんなつもりじゃなかった」
「わたしは、そう受け取った」
同じ夜を、二人で違う記憶にする。
それは誰の身にも起きる。
わたしも、母についてそう書きたい。
悪者にせず、免罪もせず。
ただ、わたしが覚えている夜を、正確に書く。
この映画を観ながら、何度も、自分の母のことを思い出しました。
私と母の話も、書いています。

