触れていない。——でも心には触れてきた
プロローグ
「触れていない」
あの人は、一度も触れてくれなかった。
でも、心には触れてきた。
誰より近かった。
夫より、恋人より、
心の深い場所を知っていた。
まるで、私の弱みを知ってるみたいに。
確かめるみたいに、
そこへ触れてきた。
第一章
「先に、心がいた」
出会いはマッチングアプリ。
まだ夫と付き合っていた頃。
幸せだった。
でもどこか、
単調な毎日がつまらなく感じて。
どうしても刺激が欲しかった。
最初は、ただの会話だった。
「あー」とか、
「うん」とか。
夫は昔からあまり反応を返してくれない。
それに比べて彼は、
大げさなくらい反応してくれた。
笑ってくれる。
共感してくれる。
私の言葉を、
ちゃんと受け取ってくれる。
気づけば、
彼からの返信を待つようになっていた。
気づけば、毎日連絡を取っていた。
忙しい彼に、私がタイミングを合わせながら。
それでも彼は、いつも楽しそうに、
私の話を聞いてくれた。
あぁ。私の言葉、ちゃんと届いてる。
その感覚が欲しかった。
彼は、私が何気なく言った言葉を、
ちゃんと覚えていた。
夫なら流してしまうようなことも。
「前に言ってたよね」
そう返ってくるたび、
少しだけ、
自分が大事にされた気がした。
嫌なことがあっても、
彼と話すだけで軽くなった。
「わかるよ」
優しいあいづちをくれるたび、
私は、彼との秘密の会話に、
どんどんのめりこんでいった。
第二章
「触れないまま、近づいていく」
私たちは会うこともなかった。
それでも、深夜までビデオ通話をしたり、
今までの恋愛の話で盛り上がったりした。
彼はそんなに恋愛経験がないからと言ってた。
だからなのかな、
私のダメな話を否定したりしなかった。
「そのままでいいよ」
彼はそうやって受け入れてくれた。
彼の声が、特によかった。
言葉より先に、体に沁みるような声だった。
少し低くて、優しくて。
今でも思い出してしまうくらいに。
毎晩、彼の電話が待ち遠しかった。
気づけば、生活の中心が彼になっていた。
何をしてても、すぐに電話に出た。
でも、電話を切るのはいつも彼だった。
私は、自分から電話することができなかった。
それがとても歯がゆい。
付き合ってるのかと、錯覚するくらい、
二人の距離は縮まっていった。
だからもう、会わない方が、
不自然だった。
会いたい。
触れたい。
その気持ちを、隠せなくなっていた。
第三章
「私は、
何を求めていたんだろう」
会いたい。
会えない。
触れたい。
触れられない。
その繰り返しに、
私はおかしくなりそうだった。
それほど、彼を求めていた。
夫となる人から得られないものを、
私は彼に求めていた。
これから先、一生、
もらえないと思っていた何かを。
私は彼にすがっていた。
彼からの返信が来るたび、
胸の奥がじわっとした。
たった一言なのに、
その日の気分が全部変わる。
夫の隣で、
言えない彼の連絡を待っている。
呼吸が浅くなって、少し苦しい。
でもやめられない。
スマホは握りしめたままだった。
朝起きて最初にするのは、
通知を見ることだった。
化粧をしてても、トイレにいても、
いつもスマホを近くに置いていた。
前の電話の時間を見返して、
次はいつだろうと考えていた。
メールして、いつ既読になるか、
気になって仕方なかった。
話せない夜は、彼の低い声を思い出して、
体の奥が少し熱くなる。
彼に集中しすぎて、夫の話が、
全く聞こえてこなかった。
もう聞かなくてもいい。
第四章
「普通の幸せが、少し怖い」
夫はとてもやさしくて、
穏やかな人だ。
安全なところにいる。
そう感じさせてくれる。
きっと、
愛されるって、
こういうことなんだろう。
だから選んだ。
夫には秘密なんて全くない。
スマホはいつも置きっぱなし。
やましいことなんてみじんもない。
でもなんだか息苦しい。
夫との、
続いていく愛のかたちが、
私には当てはまらなくて、
ひどく窮屈だ。
安心したいだけなのに、
それを望む自分は、
間違っている気がした。
夫は、ちゃんと帰ってくる。
帰る前に連絡もくれる。一言だけ。
嘘をつくことはないし、隠し事もない。
それなのに、私はどこか不安定だった。
これで安心なはずなのに。
彼の寝息が聞こえる静かな夜、
心がざわつく。
何か起きるんじゃないかと、
漠然とした不安に襲われ、
いつまでも眠れなかった。
夫は、穏やかな人だった。
無口だけど、
ちゃんと隣にいてくれる。
本当は、
こういう人を望んでいたはずなのに。
余計な考えが、止められない。
優しさの中の私は、
醜いなにかに見えるだろう。
第五章
「触れてほしかった場所」
会いたかった。
でもそうしたいと言ってくれなかった。
もう少しで届きそうだったのに。
それでよかったのかもしれない。
すでに危うい関係になっていた。
私の方が、立ち止まれなかった。
あの人は、一度も触れてくれなかった。
でも心には触れてきた。
自分でも触れられなかった場所に。
この気持ちは、誰にも知られずに、
そっと隠しておこう。
いけない恋に溺れないように。
自分も忘れてしまうくらい、深いところへ。
終章
「それでも、ここにいる」
いつもの日常は当たり前のように、
流れるように消費されていく。
私は穏やかな夫の生活に戻って、
時々思う。
あれは、現実だったんだろうか。
それとも、
幻想だったんだろうか。
それくらい私の中で大きく膨らんで、
はじけた。
今日も、ちゃんと返事をしてくれない夫に、
独り言のように話しかける。
それも凪でいい。
揺れていた私が、
ここに戻ってくるから。
何があっても、
隣にいてくれるから。
夫の寝息が、
静かな部屋に響く。
目を閉じるたび、
時々、
あの低い声を思い出す夜がある。
それでも、
夫の隣で目を閉じる。
▶︎触れていないのに、残ってしまった。
