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私を透明にした「お前には聞いてない」の一言

第1章:80歳の王様と、私の指定席


私には、自慢できるような経歴はない。
転職は10回。様々な職種。

私の中では、
人に寄り添う職についてきたつもりだが、
世間的には、一貫性がなくて書類はボツ。

でも、そんな私を面白がって拾ってくれたのが、80歳近い、あの社長だった。

面接のとき、私は半ば開き直って言った。
「正直に言います、今回のポジションは、経験もないし、向いていません。

でも、人に寄り添う仕事なら、誰よりも適任です。その強みを御社で活かしたいんです。」

普通なら落とされる。
でも、社長は声をあげて笑った。
「向いてるわけないよ。面白いね、君。
うちに来なさい」

そうして私は、社長室という名の密室に、
自分だけの「指定席」を手に入れた。

仕事らしい仕事がない日でも、隣の部屋から「おーい」と呼ばれれば、
私は二つ返事で飛んで行った。

社長はもちろんアナログな人間。メールはすべて紙に出力して、手渡さなきゃいけない。

社長室は、
乱雑に置かれた古い書類と社長の玉座、

そして社長の長い年月が染み付いたような、
独特の「すえたにおい」が漂っていた。

壁中に格言や社員旅行の写真、孫の写真がびっしり貼られている。

カレンダーはアナログですべて手書き。
それが彼の行動のすべて。

彼がいない社長室にも私は黙って入ってカレンダーを確認する。
それほど"内側"に入り込んでいた。


毎日ひたすら社長の話に耳を傾けた。
まるで王様を喜ばせたい家臣のごとく。
当たり前のようにそれが続いていった。

相手が何を言ってほしいのか、次にどんな相槌を打てば喜ぶのか、私は「正解」がわかってしまう。

それは採用の現場や婚活で、
ずっと「選ばれるため」に磨いてきた
私の習性(OS)だったんだと思う。

この「すえたにおい」がする密室にいる限り、私は特別な存在でいられる。

そんな危うい共依存に、私はどっぷりと依存していた。


第2章:「大女優」の登場と、奪われていく空気

彼女が入って程なく、なんでも相談する仲になっていた。
「〇〇さんがいるから、この仕事に参加することにしたの」なんて言ってくれて。

温かいコーヒーを淹れてくれたこともあった、手作りの美味しいクッキーを添えて。

私は油断していた。
圧倒的な味方だと、その時までは思っていた。

新しい事業が始まると、彼女は豹変した。

彼女は初めから女優だったのかもしれない。

彼女は新しい分野の知識も経験も、私よりずっと上。
でも私はマネージャーで、彼女はアルバイト。

立場は逆転し、社長は彼女の能力に一瞬で魅せられた。

彼女は、絵に描いたような「家庭が一番」の主婦の仮面を被りながら、その奥には
消えない野心の種火を隠し持っていた。

「私は社員じゃないから、わがまま言っちゃいますけど」と、無邪気なふりをして、
社長におねだりする。
あれがやりたい、これがないとダメ。

責任を負わない立場を逆手に取った、
その「打算的な強欲さ」は、組織のしがらみに抗う80歳の王様にとって、
何にも代えがたい
刺激的な魅力に見えたのだろう。


彼女は、私を差し置いて社長に意見するようになった。
本来なら、まずは私に相談するのが筋なのに。

そうこうしているうちに、社長は私にしていたのと同じように、前のめりで彼女のアイデアに耳を傾けるようになった。

「そうだよ!それだよ!」という社長の熱い声。

それは、
かつて私だけのものだったリフレイン。

私は、自分がただの「便利なリスナー」として、誰でも取り替え可能な存在だったんだと気づき始めた。

いつの間にか、社長の指示は私を飛び越えて、彼女に直接飛ぶようになった。

会議の場で社長が意見を求める先も、
私から彼女に変わった。

社長室に呼ばれる回数は激減した。

廊下ですれ違っても、なぜか密室を出ると照れたように「おう」という社長とは、

照れるどころか、目すら合わない。

昨日まで私のものだった空気が、空間が、音を立てて崩れ去り、
彼女の色へと塗り替えられていった。

そしていつからか私は、
そこにいるのに
「いないもの」として扱われるようになった。


第3章:公開処刑と、消えた足元


決定的な瞬間は、会議室で訪れた。
彼女の意見に対して、
私が何かを言おうとした瞬間、

社長が低く鋭い声で言い放った。

「お前には聞いてない」

低く、そして強く、冷徹な一喝。

部屋の空気が一瞬で凍りついた。

その瞬間、私の体はビクッと反応して、全身の血の気が引いた。

頭が真っ白になって、
何も考えられなくなった。

まるで共依存の末のDVを受けているような、そんな感覚だった。

周りを見渡すと、もっと絶望した。
社長のこういう言動は「いつものこと」かのように、新人以外は誰も動じていなかった。

そのあとのことは全く覚えてない。
気がつくと会議が終わっていた。

さっさと立ち去る同僚たち。

新人だけが「〇〇さん、大丈夫ですか?」と同情の目を向けてくれたが、
その時の私には、誰の優しさも受け取る器なんて持ち合わせていなかった。

椅子から立ち上がると、その瞬間、
足取りがずっしりと重く、
床が底から抜けてしまいそうな感覚があった。

自分の居場所はどこにもない。
逃げるように、その場を去ることしかできなかった。


第4章:車の中の深呼吸、私を選んでくれた人の待つ場所へ

外はもう暗い。
見えないように、そして逃げるように車に乗り込んだが、すぐにはエンジンはかけられなかった。

バックミラーで自分の顔を確認する。
「ひどい顔。女優に負けてない?……負けてるよね」。

母に「お前はダメだ」と言われ続けていた頃の、あの惨めな”お下がり”の自分に戻った気がして、涙が一筋流れた。

でも、このままの顔で家には帰れない。
「せめて夫を明るく出迎えたい」

不完全な私を、条件なしで選び続けてくれる、あの人が待つ場所へ。

私はハンドルを握り、深く長い呼吸をした。

そしてゆっくりと、車を走らせた。



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