OSの女|第1章 OSの生成
第1章 OSの生成
冒頭
十二歳の夜、
壁の向こうで父が苦しそうな声を出していた。
納戸と子ども部屋は隣同士だった。
薄い壁一枚で、父の息づかいが聞こえた。
お化けみたいな声だと思った。
怪獣みたいな声だとも思った。
何かよくないことが
起きているのはわかったけれど、
何が起きているのかはわからなかった。
怖くて、見に行けなかった。
布団の中で、ただじっとしていた。
次の朝、父が病院に行ったと母から聞いた。
盲腸だった。薬で治って、すぐ帰ってきた。
でも私はずっと、あの夜のことを覚えている。
隣にいたのに、何もできなかった夜のことを。
子どもって、無力だ。
そしてたぶん私は、あの頃からずっと、
何かに備えるようになっていた。
一 家族という地図
父が朝起きているのを、見た記憶がない。
毎晩遅くまで飲んでいたと、後から聞いた。
夜出かけていく父。
母も仕事で夜出かけていく。
泣いていたのは妹の方だった。
私は泣き止まない妹のために、
どちらかに電話して、母を呼び寄せた。
妹は末っ子の特権を最大限に行使し、
長女の私は、妹に姉をさせられた。
それでも、家族だった頃がある。
ディズニーランドが初めて開園した頃、
まだ新幹線が東京駅まで走っていなかった頃、四人でパレードを見に行った。
母はマメで、アルバムの写真一枚一枚に
コメントを付けていた。
海の写真に、
「冷たーい、水かけないで」と。
母にとって、家族がとても大切だったことは、そういう細かいところに現れていた。
だからひとつだけ、約束したんだろう。
「浮気はしてもいい。
でも子どもだけはつくるな。」
旦那が帰ってこなくても、家族が壊れなければそれでいい。惨めじゃなかったんだろうか。
愛はいらなかったんだろうか。
私はてっきり、
母は父に気持ちなどないものだと思っていた。ほんとのことに気づくのは、
ずっと後のことだ。
私たちが成長するとともに、
父と母の喧嘩がひどくなった。
物を投げるなんて日常茶飯事で、
私のお気に入りの
ぬいぐるみで戦っていた時は、
泣きながら死ぬ気で逆らった。
小学校高学年になると、父の出張が増えた。
月に一度が、だんだん頻度を増し、
月に一週間しか
自宅にいない逆転現象が起きた。
そしてある日、ものすごい喧嘩があった。
その日を境に、父の寝室が変わった。
父が納戸に追いやられたのだ。
子どもながらに、おかしな出来事だと思った。そしてあの夜がきた。
壁の向こうで
父が苦しそうな声を出していた夜が。
父が退院してしばらくすると、
私たちが学校に行っている間に、
着替えやら荷物やら、
ごっそり持って出て行った。
うちは見た目だけ、
母子家庭になってしまった。
ここから約二十五年の別居生活が始まった。
「籍は絶対抜かないよ。あんただけ幸せになってたまるか。一生飼い殺しにしてやる。」
母の言葉を聞いた時、なんて恐ろしい、
可哀想な母なんだと思った。
でも同時に、その言葉には
母が父をまだ愛していた証拠が
滲んでいることも、子どもながらにわかった。
愛と怒りは、ひとつの場所に同居する。
私はたぶん、この家の中で、
それを体で覚えた。
二 言霊
母はいつも、少し怒っていた。
怒鳴っている日もあれば、
静かに機嫌が悪い日もあった。
店から帰ってきた母は、
いつも少し煙草とお酒の匂いがした。
私はその匂いを嗅ぐだけで、
今日の空気を探っていた。
機嫌が悪い日は、
ドアの閉め方が少し強かった。
台所に立つ音も、少し大きかった。
玄関のドアが開く音で、
その日の空気が決まった。
「お前はダメだ」
それが母の常套句だった。
「こんな子に育てた覚えはない」、
「何もできない」、「ダメな子」。
目を背けたくなるような言葉たち。
でも子どもの私には、
その言葉が世界のすべてだった。
まだ何者でもなかった頃に
刷り込まれた言葉は、根を張るのが早かった。母の言葉通りの「ダメな子」という言霊を、
そのまま抱えて育ってしまった。
私は怒られない方法ばかり覚えていった。
「いい子」を作るのが上手くなっていった。
でも本当は、ずっと疲れていた。
自分の気持ちより先に、
周りの温度を測っていたから。
夜、布団に入ると、少しだけ安心した。
でも同時に、玄関の音が気になった。
父は帰ってくるのか。
母はまだ起きているのか。
今夜は静かなまま終わるのか。
静かな夜が怖かった。
本当に怖かったのは
怒鳴り声じゃなかったのかもしれない。
「次に何が来るかわからない静けさ」だった。
だから私は、何も起きていない時間ほど、
先に緊張してしまうようになった。
それはずっと後まで、私の体に残った。
母は強かった。誰にも頼らなかった。
店をやって、働いて、家のことをして、
弱音もあまり吐かなかった。
私は、そんな母が怖かった。
でも同時に、少し羨ましかった。
母みたいになりたくなかった。
でも、母みたいに強くなりたかった。
だから私は、ちゃんとしていない自分を、
許せなかった。役に立たないといけない。
迷惑をかけちゃいけない。
空気を悪くしちゃいけない。
それが、愛される条件だと思っていた。
「ダメな私は愛されない」
それを、かなり早い段階で覚えてしまった。
三 バグ
母の言葉は、見えない形で日常を
侵食していった。
思春期になる頃には、「私ってイケてないから」と自虐的に口にするようになっていた。
そして顕著に現れたのは、
初めての彼氏だった。
彼はいわゆる束縛の強い、危うい人だった。
連絡が少しでも遅れると、機嫌が悪くなり、
怒り出した。
でも私は彼の優しさだけをインストールし、
怒った彼を削除した。
それも愛情の一つと思っていた。
束縛イコール強い愛。私は愛されている、
自由はないけど思われている。
こんな人他にいない。
私のOSは完全にバグっていた。
その苦い経験はこの先活かされず、
何度も似たような恋愛経験を繰り返した。
感情の波が激しい人。
怒る理由が少しずつ増えていく人。
でも私は毎回、そういう人を選んでいた。
選んでいた、というより、
そういう人にしか「愛」を感じられなかった。静かな人は、物足りなかった。
何も起きない関係は、怖かった。
ある時、コンビニの店員さんに、
少し笑っただけで、隣の彼の空気が変わった。帰りの車の中で、何も喋らなくなった。
私は怒らせた理由を探していた。
信号待ちの赤が、
やけに長かった。
その時の私は、まだ気づいていなかった。
これは恋愛じゃない、と。子どもの頃、
玄関のドアの音で
空気を探っていたあの動作を、
そのまま大人の恋愛に
持ち込んでいただけだと。
母が作ったOSを、
私はそのまま使い続けていた。
大人になる頃には、
かなり「扱いやすい人間」になっていた。
気が利くと言われた。頼りにされた。
必要とされた。
でも私は、ずっと疲れていた。
誰かのために
身を差し出さないといけない感覚が、
いつもあった。
それが人のためで、愛されるためで。
自己犠牲という言葉は嫌いだけど、
でもそれだった。
恋愛も同じだった。好きになった人より、
必要としてくれる人に
強く引っ張られていった。
「君だけなんだよ」
「分かってくれるのはお前だけ」
そう言われると、断れなかった。
やっと、役に立てる気がした。
でも、必要とされる恋ほど、苦しかった。
相手の機嫌で呼吸が変わる。
返信ひとつで一日が決まる。
私は恋愛をしているというより、
ずっと確認作業をしていた。怒っていないか。
嫌われていないか。置いていかれないか。
それでも、離れられなかった。
必要とされなくなった瞬間、
急に自分が空っぽになるから。
たぶん、母に怒られないように
生きていた頃から、何も変わっていなかった。
四 書き換え前夜
あまりの辛さに、
母の声を聞くだけで震えが止まらなかったり、何かを言われると頭が真っ白になって
何も聞こえなくなるようになった頃、
心療内科で、認知行動療法を9回受けた。
それが終わった頃、ぼんやりと思えてきた。
母は大きかった。でも絶対じゃなかった。
そう客観視できた時、少し気は楽になった。
でも、自己肯定感は相変わらずだった。
それでも頭が真っ白になる前に
その場を離れたり、
「今自分は傷ついている」と
伝えることができるようになったり、
少しは前に進めてる気がした。
母も、「ちゃんとしていないと愛されない」を
抱えた人だったのかもしれない。
だからあんなに必死だった。
だからあんなに、私にも正しさを求めた。
二人は似ていた。
衝突するほどに、似ていた。
でも私はまだ、その前提を抱えたまま、
恋愛に向かっていった。
OSの書き換えがどういうものか、
まだ知らなかった。
母の言葉が自分の奥底に
どれだけ深く根を張っているか、
見当もつかなかった。
ただ、ただ、そのOSを抱えたまま、
私は愛されようとしていた。
選ばれたい、ただ一心に願って。
▶ 次の話
第2章|間違った前提の恋愛
▶︎はじめから読みたい方はこちら
▶︎ この話は、
『OSの女|母に作られ、暗闇を愛し、日常を夫と呼ぶまで』
母との関係、恋愛、婚活、夫婦。
別々の話に見えるけれど、全部ひとつの場所に繋がっています。
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▶︎ 目次
プロローグ|布団の中から始まった
第1章|OSの生成
第2章|間違った前提の恋愛
第3章|婚活という戦場
Interlude|触れていない
第4章|OSの書き換え
第5章|日常という、まだ慣れない場所
終章|まだ書いている
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※本作は創作大賞2026応募作品です。
▶︎この話は、もっと前から始まっている。
全部、繋がっている。|はじめての方へ
「お前はダメだ」と言われて育った私が、“選ばれる人の共通点”を見つけた理由
