【連載小説】夏の果実が未来を紡ぐ。——翠緑の循環【1】(全9話)
【あらすじ】
25歳のミキの右手には、生々しい生命の刻印が記憶されていた。
その始まりは15年前の夏、大好きな祖母と交わしたひとつの約束だった。
大地と空に守られた田舎町で、同学年のいとこのカナエと、その友人たちと織りなす、懐かしくも美しい夏のひとときの記憶。
自然の摂理を説く祖母との思い出。
無菌室のような都会で生きるミキが、人生の不条理と生命の連続性に直面しながら、かつて祖母が夢見た「緑色の海」へと向かう。
ミキが約束を守るために、葛藤の末に「盗み出したもの」とは?
ミキの「右手の記憶」の秘密とは?
自然と繋がる人類の系譜、家族の絆と生命の循環のダイナミズムを人間の身体性を軸に冷徹かつ鮮やかに描き切った、美しき青春文学。
【※注意】この物語は、著者の精神を削り出し、一つの実存として産み落とされたものです。剽窃、および生成AIへの学習利用は、理由を問わず固くお断りいたします。すべての権利は著者に帰属します。
――ルイーザ・ジューン・ボルコット
(画像は全てNano Banana 2で作成しています)
【登場人物】
主人公:ミキ 1997年9月6日生まれ
ミキの兄:ケンイチ 1992年生まれ
ミキの父:マコト 1964年生まれ
ミキの母:マヤ 1966年生まれ
ミキの祖母:ナツエ 1937年7月1日生まれ
ミキの祖父:コウイチロウ 1933年生まれ(享年58歳)
伯父(マヤの実兄):ソウタロウ 1963年生まれ
伯母:ヨシコ 1966年生まれ
従兄:リョウタ 1989年生まれ
従姉:アンズ 1994年生まれ
従姉:カナエ 1997年7月27日生まれ
カナエの同級生:サクラ、アキコ、カケル、トモヤ
デスクスタンドの白が、午後10時の優しさの空間を修正テープでなぞるように、スマートフォンに反射する。
画面に映る銀行口座の金額を見つめ、ミキは背筋を伸ばして深呼吸した。
スマートフォンを右耳に当てると、冷房の残渣で耳の凹凸が浮かび上がる。
「あ、お兄ちゃん」
「どした~?」
スピーカーから何か食べながら話す、ケンイチの声がこぼれる。
「あのね、2人分、準備できたよ」
ミキは、ジュエリーボックスのアクリルの表面を、左手でそっとなぞりながら言った。
右手のヌルヌルとした感触の刻印は、未だにはっきりとしていた。
「俺も半分出して良かったのに。コロナのことがあるけど、5類になったし、いつまでも待てないしな。じゃあ作戦決行だ。休み取れそうなとこ、候補送っておくわ」
「ありがとう。またね」
電話を切ると、ミキはポータブルスピーカーの音量を上げた。
<ヘイ・ジュード>が、ワンルームの25歳を優しく包む。
その旋律が、15年前の記憶の底にある、単調な高速道路の景色を引っ張り出した。
ヘッドレストから覗く白髪交じりの父の後頭部を眺めながら、ミキはあくびをした。
高速道路は、退屈だ。1時間くらい前にサービスエリアのトイレに寄った後から、ずっと同じような景色だ。
カーステレオから、父のお気に入りのビートルズがずっと流れている。
「絶対に傷つけないでよ」
出発して3時間、母にCDを交換させる父の神経質な左耳の輪郭が動く。ミキは心の中で、
「一体、ビートルズって何曲あるの?」
と突っ込んでいた。
ミキは右半身をドアに寄せて、頭をガラスに預ける。
硬いけれど、風邪の時に母が乗せてくれる濡れタオルの温度そのものだ。
薄いブルーのガラスが、もっと青い7月の終わりの空を縁取って、容赦ない太陽を受け止める。
隣では、兄のケンイチが背もたれにぴったりとうなじを付けて、口を半開きにして寝息が出入りしている。
半日がかりの移動は大変だけれど、大好きなナツエばあちゃんに会える。
いとこのカナエとも遊べる。
そして、いつもは2泊なのに、今年はミキだけは5泊もできる。
何としても希望する中学校にミキを進学させたい母は、当初この帰省には反対していた。
しかしミキは、このために塾のテストも頑張ったし、学校の宿題も、塾の課題も、全部終わらせた。
仕上げに肩もみ券を賄賂に、父マコトを味方に引き込むことに成功したのだ。
早朝に出発する際には、
「私は、反対なんだけどね」
と、念を押すように言っていた母だったが、緑の標識を通り過ぎる度に、
「なんか、お母さん、もうお腹すいちゃったな。休憩まだ?」
なんて言っている。
ばあちゃんの家は、母マヤにとっては自分の実家である。
しかし、憧れの東京に出てきて田舎娘のラベルを完全に貼り換えた彼女にとっては、あまり近寄りたくない場所でもあったのだ。
前方に、緑に白文字の、大型サービスエリアの予告看板が見えてくる。
父は、底の方に残っていた缶の緑茶を飲み干してカップホルダーに置き、グシャっという乾いたアルミの音がギターに混じった。
「ちょっと早いけど、お昼にするか」
そう言って、父は車線を左に移した。
「先に行ってるね!」
ミキは車を降りると、あくびをしながらダラダラと歩くケンイチを後ろに、ユニークな形の建物が並ぶ方へ駆け出した。
冷房をかき消すような人々の体温と炒めた油の匂いが、ミキの心拍数を跳ね上げる。
ミキは鼻から一回、大きな深呼吸をすると、あたりの通路を早足で行ったり来たりした。
ウナギのポップな看板の前で、父が構える買ったばかりのデジカメに向かってピースをしている母。
遅れてやって来たケンイチは両手をポケットに入れたまま、それを見て苦笑いしていた。
広い駐車場には多くの車が見られたが、まだ10時台ということもあって、フードコートの座席には余裕が見られた。
「席、大丈夫みたいだから、湖見てみようか」
父を先頭に昔のRPGのように4人一列になって、建物を横断した。
短い移動の間にも、母は何度も列を抜けて、土産やB級グルメの看板に吸い寄せられていた。
建物を出て遊歩道に出ると、木々の向こうに、絵の具を沈めたような本格的な夏色が拡がっていた。
「わあ!スゴイ!」
ミキは、汗ばんだケンイチの背中を叩く。
所々、向こう岸も見えにくくなっていて、どこまでも穏やかだ。

首周りの汗が向かい風に涼まされる。
ミキは思わず口を大きく開けて、湿度を含んだ味のする、その景色を吸い込んだ。
「私、海って大好き!」
「湖だけどな」
と、ケンイチが間髪入れずにつぶやく。
「ここは、おんなじだよ。顔色が、おんなじ」
ミキはちょっと怒ったようにして、右の腰骨でケンイチの膝を小突いた。
「顔色か、ミキらしいな」
そう言った父の細くなった白髪が、チンアナゴのように波打って、ミキはプッと噴き出す。
「こんな地味な色がいいの?」
母は、ライトイエローのチュニックをなびかせて、右手で幅広の帽子を押さえながら湖を見つめた。
「こんな、落ち着いた感じも好きだけど、テレビで見るような緑がかったのも見てみたい」
「じゃあ、合格したら、みんなで南の方の海でも行くかぁ」
そう父が言うと、
「本当?よっしゃあ、ミキ頑張れよ」
と、なぜかケンイチがポケットから手を出して興奮していたが、ミキは真っすぐに、湖面のわずかな揺らぎを見つめていた。
建物に戻って、4人は食事の物色を始めた。表にも小さな店が立ち並んでいたが、みんな揃って食べることになった。
「私、ラーメンがいい」
と、ミキはラーメンの写真の看板の前に立った。
「俺も。暑い時こそ、熱いもの、だよな」
ケンイチも横に並ぶ。
特に食には興味がない父も、それに便乗する。
「え~、せっかくだから、ご当地ものにすればいいのに」
母は、結局うな丼を注文したが、一口食べた瞬間に動きを止めた。
それから、ミキの模試の点数が思わしくなかった時のような、微妙な表情でうつむくと、無言で猛然とかき込み始めた。
ミキは心の中で苦笑いしながら、自分の温かいラーメンをすすった。
4人が食事を終えると、かなりの人手になっていて、トイレなどはちょっとした握手会場のようになっていた。
たくさんの土産袋を腕にぶら下げて車に向かうミキは、
「あーあ、また、ビートルズかぁ」
なんて毒づきながらも、鼻歌で<Please Please Me>を奏でると、後ろからケンイチがサビの部分をハモってきて、父がそれをニヤニヤして見ていた。
予想通り、ビートルズ漬けの2時間を過ごすと、車はインターチェンジ出口の車線に入った。
支払いのために運転席の窓が下がると、サウナのドアを開けた時のような空気が、ミキの両目の粘膜を刺激した。
周りを山に囲まれたこの風景は、やさしいナツエばあちゃんの顔だ。ミキは、ばあちゃんの家で何をしようかと、考え始めていた。
「こんな何もないところで歴史変わったって、面白いよね」
時折現れる観光用看板に反応したミキが、ケンイチに顔を近づけて言った。
「それ言ったら、前に京都行った時だって、本能寺に老人ホーム建ってたじゃん」
ケンイチは、コーラのペットボトルを口にする。
「何でも、変わっちゃうんだね……」
ミキは、再び車窓に顔を向けた。
少しサビの付いたガードレール。
のどかに立ち並ぶ電柱。
植物の間に、申し訳なさそうに立っている民家。
「きれいだねえ」
と、音程を付けてミキがつぶやく。
母は顔を半分だけ振り返し、
「ミキ、本気で言ってるの?お母さんなら、こんなところ、絶対暇で逃げたくなるけど」
と笑って言った。
「え~?暇そうなのが、いいんじゃん」
塾も、習い事も、全部ない。何もなさそうだけど、知らないだけ。それがいい。
「おばあちゃんみたいなこと言って……。でも、ちゃんと毎日、課題はやってね」
「わかってるって」
ミキはシートベルトを伸ばして、助手席と運転席の間に左手の親指を立てた。
15時になろうかという時間帯。
細い路地を抜けて、ばあちゃんの家の前まで来ると、白いミニバンが停めてある。
それを見るなりミキはシートベルトを外し、
「あ、カナエちゃんたち、もう来てる!」
と、身を乗り出した。
タイヤが砂利を踏みしめる音に待ちきれないミキは、両手でフロントシートの肩口をバンバンと叩く。
縁側のカーテンが少し揺らめき、人影が見えた。
エンジンを止めると同時に、ミキはドアを開けて駆け出していく。すると、玄関の引き戸が開いて、日焼けした笑顔のツインテールが、ぶかぶかのサンダルを引っかけてきた。
「ミキちゃん!」
「カナエちゃん!お誕生日おめでとう!」
玄関の前でハイタッチを求めるカナエに、ミキも負けまいと両手を伸ばして突っ込んでいった。
お土産を抱えて母も降りてきて、その後ろからケンイチも両手をポケットに入れてのそのそとついてくる。
父は運転席でバックミラーを覗きながら、手櫛で髪型を直していた。
「ミキ、お正月からも、またおっきくなったなあ」
ナツエばあちゃんが、手ぬぐいで両手を拭きながら笑顔で出てきた。
「ばあちゃん!」
ミキはほとんど目線の変わらなくなったナツエばあちゃんに、やさしく抱きついた。
「暑かったもんで、えらかったやろ」
古くなった畳と線香の乾いた匂いが、ミキの薄紫のTシャツの繊維に移る。
そして、ジリジリと日光がしみ込んだつむじに、ばあちゃんが手を乗せると、ひんやりと柔らかい涼気がミキの頭皮を包んだ。
「お邪魔します~」
と、はく製なんかが飾られている広い玄関に、母マヤの声が響く。
自分の家だったはずなのに、仰々しいこの光景は、ミキにとっていつも滑稽に見えた。
廊下の奥から、えんじ色のエプロンを付けたままのヨシコおばさんが小走りでやって来て、
「あららら〜、マヤさんお久しぶりぃ〜。マコトさんも、お疲れ様やったねぇ。ビール冷えとるもんで、手、洗ってきちゃってぇ!」
と、右手をパタパタした。
「ありがとうございます、早速で悪いけど、これ、お土産」
と言って、母が紙袋を手渡し、父はその後ろで照れたようにペコペコお辞儀をしていた。
「あら〜、また伸びたがねぇ」
と言って、ヨシコがケンイチを見上げると、ケンイチは、
「ありがとうございます、お世話になります」
と、よそ行きの野太い声で答えた。
ミキは、そんな様子をちょっとしたエンタメとして後ろから楽しんでいた。
「ヨシコおばさん、アンズお姉ちゃんたちは?」
「アンズは部活。後から来るよ。リョウタは大学が楽しいんやろか、今年は戻ってこんって。さあ、カナエも入んない」
そう言って、ヨシコは再び慌ただしく奥へ消えていった。
茶の間に行くと、これから始まる北京オリンピックのテレビ特集が流れていて、ミキの両親が、伯父のソウタロウと、床の上で丁寧に挨拶していた。
「いや、ミキちゃんの勉強のことがあるもんで、マヤが来んって電話してき
たときにはびっくりしたけど、まあ、会えてよかったわ」
と、ソウタロウは、運ばれたばかりのコップにビールを注ぎ始めていた。
テーブルの上には、すでに空になったビール瓶が置かれていた。
「まあ、まだ一年以上ありますから」
と、父は慌てたようにして空のコップを両手で挟んだ。
「おじさん、こんにちは!」
「おお、ミキちゃん、ケンイチに似て伸び始めたなぁ。ウチのカナエは、ちっこいまんまでなぁ」
おじいちゃんの会社を継いだソウタロウは、いつも多めにお年玉や小遣いをくれるので、ケンイチやミキがここを訪れる楽しみの一つになっていた。
大人たちがビールを片手に世間話で盛り上がる中、ミキとカナエは、ヨシコに出されたカップアイスを手に取っていた。
表面の水滴で、少しだけ紙の容器が緩む指先の感触がたまらない。
蓋をはがす瞬間の、ぼそっとした抵抗。
揺れる霧を纏ったアイスの表面の、ざらついた凹凸。
ミキは、いつものように蓋の裏を舐めたい衝動を抑えて、指の関節の圧力を確かめながら、上品にスプーンを入れていった。
染み込む甘さと、麦茶のほのかな苦み。冷たいもの同士の組み合わせも、なかなかだ。
「パーティーまで外で遊ばん?一輪車、できるようになったもんで!」
と、スプーンの倍の大きさの欠片を乗せて、カナエが言った。
「すごいね。じゃ、早く食べちゃおう」
ミキも、スプーンに力を込めて、大きくすくって見せる。
そんな2人を、ばあちゃんは、歯を露わに頷くようにして見守っていた。
16時を過ぎてもその日は暑く、ミキの白いキャップはお守り程度にしかなっていなかった。
カナエのヘルメットの隙間から滴る一筋が、少し影を伸ばしてきた光線を弾く。
半年前からつけ始めたスポーツブラジャーの背中の逃げ場のない布地が、ぴったりと貼り付いてむず痒くて、ミキは肘を曲げて両肩を回した。
「ほら、上手になったやろ!ミキちゃんにも教えてあげるね!」
ミキは、ちょっと自慢気な表情にほんの僅かな嫉妬を感じながらも、いつかテレビで見た雑技団の様に、器用に前後するカナエを心底称えていた。

ミキも少し借りてトライしてみたり、縄跳びや、水風船で遊んだりしていると、
「そろそろ始めるよぉ、集まりんねぇ!」
と、縁側のガラス戸が開いて、ヨシコおばさんの声が響いた。
セミのジリジリという通奏音程に混じって、いつの間にか、カナカナという鳴き声も聞こえていた。
玄関に戻った瞬間、唐揚げの匂いがミキとカナエの鼻をノックして、2人は見合わせてムフフと笑った。
大広間では、大小合わせて3つのテーブルが並べられ、デパートで買って持参した花柄のエプロンを着けた母が、料理を並べていた。
父は真っ赤な顔でソウタロウおじさんの正面に座り、いつものように自慢話をうんうん頷きながら聞いている。
「よっ!ミキちゃん」
と、元気に声をかけた上下ジャージ姿のアンズは、カナエよりも日焼けして、手のひらが白く見えた。
ミキとカナエは、炭酸の泡がふつふつと湧き上がる、飴細工のように歪んだピンク色のグラスの前に座った。
ソウタロウの発声で乾杯するのは、いつものことだったが、この日はカナエが、
「主役は私でしょ!」
と、ピンクのグラスを右手にしたまま立ち上がって牽制すると、笑いが起こった。
「ケンイチ君は、中高一貫やもんで去年も受験なかったもんなあ。羨ましいわぁ。アンズは来年度、高校受験だもんでねえ」
プクプクした指でソウタロウに日本酒を注ぎながら、ヨシコがケンイチに声をかける。
ケンイチが何か言おうとした途端、
「でも結局、毎年夏期講習やら何やらで、忙しくて。本当にこれで良かったのか、わかりませんもんねぇ」
と、母がすかさず返していた。
「そうなんですよ、講習なかったら、僕も5泊したかったです。ミキが羨ましいです」
一瞬の不穏な空気を、故意か天然か、ケンイチが絶妙にかき消した。
そのおかげで、そのあとのケーキ入刀からの、皿の上でケーキが次々転倒、仕上げにソウタロウのオナラが響いて大爆笑につながったのだ。
ミキは、奥の仏間に飾られた遺影のコウイチロウじいちゃんと、一瞬目があった気がした。
【次回予告】
闇夜に弾ける花火の光と、虫よけスプレーの匂い。
一緒にお風呂に入らなくなったアンズに、ミキは「大人の境界線」をかすかに察知する。
