月が好きな人【#チャレがや】
「俺はねぇ、月が好きなんだよね」
︎︎そう言った彼の横顔は随分と幼げに見えた。風が弱く吹き、滑らかに私たちを抱え込む。彼は、私を見ずに言葉を続けた。
「いつからだろうねぇ。もうわからないのだけれど」
︎︎毎週金曜日、午後八時。
︎︎私はこの場所で彼と会う。言葉を交わしたり、交わさなかったり。その時々で彼との距離は変わってしまう。
ただ、ひとつ。
彼が月を好きだという事実は変わらない。
人は、彼を「月さん」と呼ぶ。
「月さん」
川べりにある木製のベンチへと声をかける。あぁ、よかった。今日はおひとりみたいだ。
月さんは、老若男女問わずの人気者。周りに人がたくさんで、声をかけられない時だってある。そういう時は、お顔を盗み見て、胸にあたたかさを溜め込んで帰るのだ。気を遣わせないために。もっとも、私の存在に本人は気づいていたりするのだけれど。
「こんばんは、いらっしゃい。今日は、気持ちのいい夜だね」
しんみりとした夜に、のどかな声が通っていく。「こんばんは」と返しながら、私は月さんの座っているベンチの端っこに腰をかけた。昼間に宿ったぬくもりが消えたベンチは、少しだけ冷たかった。
「今日は、満月ですか」
私は夜空を見上げながら、尋ねた。雲がところどころ空を歩いている。その雲の片隅にぽつんと月はひかっていた。
「もうすぐ、満月だよ。今日じゃないけどね」
月さんも同じように空を見上げている。ひっかかりのなさそうな茶色い髪の毛がさわりと揺れた。
私には、月さんのことが何もわからない。
年齢も職業も何もかも。辛うじて、男性だとは思うけれど、名前もわからない。誰かが「月さん」と呼んでいたから呼んだだけ。見知らぬ私が名を呼んでも、月さんは「なぁに」と微笑む。
私たちはお互いのことを何も知らない。
けれど、私はそんな月さんと一緒にいることが心地よいのだ。
月さんは黙って空に浮かぶ丸を眺める。
私もそれにならって丸を眺める。
雲がいくつも通り過ぎたあと、月さんがゆっくりと口を開いた。
「きみ、そろそろ帰らないと」
いつもと何も変わらない凪いだ声。同じベンチに座っているはずなのに、月さんが遠くに感じてしまう。
「もう少し、もう少しだけ、ここにいたい、です」
「ダメだよ」
月さんの声が鋭く夜を切り裂く。私は、ぱっと彼の顔を見てしまった。月さんは唇に右手の人差し指をあてる。
「だって、女の子は帰る時間でしょう」
だから、今日は帰りなさい。諭すように私の目を見て笑う。いつもの、人に囲まれているときの月さんのはずなのに、いつもと違う妖艶さを放っている。
申し訳程度に広場に置かれた時計は、九時半を回ろうとしていた。今時、小学生でも起きている時間なのに。けれど、言われてしまえば悪い気もせず、私は大人しく席を立つ。
「ねぇ」
珍しく、月さんが呼び止める。足を止めて振り返った。
「また、来週、ね」
にやりと笑む月さんに目も心も奪われてしまう。だから、この人はたくさんの人に囲まれるのだろう。
私はきっと、来週もここに来る。
金曜日の午後八時。
月が好きな、あの人へ会いに。
やっと、参加できました~。
書いてて楽しいって幸せですね。
ちなみに、5月31日は満月。ブルームーンだそうですよ。
夜はまだまだ気候がいいので、見上げてみるのもいいかもしれないですね。
