自分で選んだはずなのに、なぜか疲れてしまう理由 ーー 自己決定理論
休日の朝、
目覚ましを止めたあとで、
今日やりたいことを考えました。
読みかけの本を読む。
少し遠くまで歩く。
部屋を片づける。
気になっていた店へ行く。
どれも、誰かに頼まれたわけではありません。
自分で選んだことです。
なのに、昼を過ぎたころには、
まだ何もしていないのに疲れていました。
本を読めばよかった。
歩きに行けばよかった。
せっかくの休みを無駄にしている。
選べるはずなのに、
選択肢が増えるほど、
心の中に小さな宿題が増えていく。
そんな日があります。
自分で決めることは、いつも軽いわけではない
「自分で決める」ことは、
自由で、前向きなことだと思われがちです。
誰かに決められるより、
自分の好きなようにできたほうがいい。
それは、たしかにそうです。
でも、選んだ結果まで、
全部自分の責任のように感じ始めると、
自由は少し重たくなります。
やりたい仕事を選んだのだから、
つらくても弱音を吐けない。
自分で始めた習慣だから、
続かないのは意志が弱いからだと思う。
休日の過ごし方まで自分で決めたのだから、
充実させなければもったいないと焦る。
自分で選んだことが、
自分を励ますものではなく、
自分を採点するものに変わっていく。
疲れているときは、
決めることそのものより、
決めた自分を失望させないことに力を使っているのかもしれません。
自己決定理論という考え方
心理学には、
人が自分らしく動き続けるためには、
いくつかの基本的な心の必要があると考える
「自己決定理論」があります。
提唱したのは、
エドワード・デシとリチャード・ライアンです。
この理論では、
人が健やかに動くために大切なものとして、
主に三つの感覚が挙げられます。
自分で選んでいるという「自律性」。
少しずつできるようになっているという「有能感」。
誰かとつながっているという「関係性」。
自分で選べていても、
何をやってもうまくいかない感じが続けば、
動く力は細くなります。
できるようになっていても、
一人で抱えている感じが強ければ、
その達成は心の中で孤立します。
誰かとつながっていても、
自分の意思がまったくないままなら、
自分の生活を生きている感覚が薄くなります。
三つは、
別々の条件というより、
毎日の中で互いに支え合う感覚なのだと思います。
「やりたい」と「やらなければ」を見分けにくい日
僕たちは、
自分で決めたことなら、
いつでも力が湧いてくるように考えがちです。
けれど、同じ行動でも、
心の中にある理由によって、
重さは変わります。
誰かに認められたいから続ける。
遅れたくないから続ける。
失敗したと思われたくないから続ける。
それも、生活を動かす大切な理由です。
外からの理由があること自体が、
悪いわけではありません。
ただ、いつも「怒られないため」や
「見捨てられないため」だけになると、
自分で選んでいる感覚が少しずつ遠くなります。
反対に、
誰かに言われたことでも、
自分にとって大切な理由が見つかると、
その行動は少し自分のものになります。
「勉強しなければ」から、
「この仕事をわかるようになりたい」へ。
「運動しなければ」から、
「明日の体を少し楽にしたい」へ。
大きな目標に変える必要はありません。
自分の中にある理由へ、
ほんの少し戻っていくことです。
選択肢が多いほど、自由を感じられないことがある
ある夜、
夕食のあとに何をするか迷っていました。
動画を見る。
本を読む。
仕事を少し進める。
写真を整理する。
明日の準備をする。
どれを選んでもいいのに、
どれも選ばないまま時間だけが過ぎました。
そのうち、
「今日も何もできなかった」という気持ちが出てきました。
でも、実際には、
選べなかったというより、
すべてをよい選択にしようとしていたのだと思います。
休むなら、ちゃんと休みたい。
進めるなら、意味のあるところまで進めたい。
明日のためになることをしたい。
一つ選ぶたびに、
選ばなかったものを捨てるような気がしていました。
自由に使える時間だったはずが、
自分を試す時間になっていたのです。
「自分で選ぶ」と「一人で背負う」は違う
自己決定という言葉を聞くと、
何でも自分一人で決めることを思い浮かべるかもしれません。
でも、誰かに相談してはいけないわけではありません。
むしろ、安心して話せる人がいると、
自分の気持ちを確かめやすくなります。
「どうしたらいいと思う」と聞く。
「今はここまでしかできない」と伝える。
「一緒に考えてほしい」と頼む。
これは、決定権を手放すこととは違います。
一人で暗い部屋にいると、
小さな不安が大きく見えることがあります。
誰かの言葉を借りて、
自分の考えを見つけ直す。
つながりがあるからこそ、
自分の意思で決められることもあります。
「自分で決めたのだから、全部自分でやらなければ」と思うとき、
その決定の中から、
助けを求める選択肢だけを外していないか、
見直してみてもいいのだと思います。
できたことが見えないと、選択はすぐに失敗になる
自分で決めたことを続けるには、
結果だけでなく、
途中の手応えも必要です。
一冊読み終えることだけが成果ではない。
一時間歩くことだけが運動ではない。
完璧に片づけることだけが前進ではない。
本を開いた。
靴を履いて外へ出た。
床の一角だけを片づけた。
そういう小さな行動を、
「まだ足りない」と消してしまうと、
自分にはできないという感覚だけが残ります。
できることが増えた実感は、
大きな成功のあとにだけ現れるものではありません。
自分の動きを、
自分で見つけてあげる。
それだけでも、
次に選ぶときの足場が少し戻ってきます。
今日の選択を、小さくしてみる
何をするか決められない日は、
人生の方向を決めようとしなくていい。
今夜の自分を少し楽にする選択を、
一つだけ置いてみます。
本を一章読む代わりに、
最初の二ページだけ開く。
散歩に出る代わりに、
窓を開けて外の空気を吸う。
部屋を片づける代わりに、
目についたものを三つだけ戻す。
誰かに相談するなら、
答えをもらおうとせず、
今の気持ちを一度声にする。
小さくすることは、
諦めることではありません。
自分の意思が届く範囲まで、
選択を戻してあげることです。
「本当は何がしたいのか」がわからない日もあります。
そんなときは、
「何なら少し無理なくできそうか」から始めてもいい。
やりたい気持ちは、
いつも最初から大きな声で現れるわけではありません。
安心できる余白の中で、
小さく戻ってくることがあります。
選べる自分を、毎日つくらなくていい
自分らしく生きるという言葉は、
ときどき、立派な選択をし続けることのように響きます。
でも、今日の自分が、
昨日と同じ力を持っているとは限りません。
疲れている日は、
決める量を減らす。
うまくいかない日は、
できた場所を一つ見つける。
心細い日は、
誰かとのつながりを借りる。
自分で選ぶ力は、
気合いでいつも一定に保つものではなく、
環境や人との関わりの中で、
少しずつ戻ってくるものなのかもしれません。
今日の選択が小さくても、
それは自分の人生を生きる練習になります。
誰かに見せるためではなく、
自分の心が「これなら」と思える大きさで。
自分で選んだはずなのに疲れた日は、
選び方が間違っていたのではなく、
自分で選ぶための余白が足りなかっただけかもしれません。
そんなふうに考えられると、
選べなかった自分への言葉が、
少しだけやわらかくなります。
自分で決めることと、
自分一人で背負うことは、同じではありません。
その間にある余白を、
今日は少し広くしておきたいと思います。
考えすぎて、何を選んでも不安になる夜には、 できたを数えると次の一歩が少し軽くなる理由 ーー 自己効力感 も、そっと置いておきます。小さな手応えを見つけることから、自分の足場を戻していく記録です。
それでは、またこの場所で。
