MVP ARCHIVE HISTORY | Cuban Missile Crisis / キューバ危機 - 世界が核戦争に最も近づいた13日間

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キューバ危機 - 世界が核戦争に最も近づいた13日間
1962年10月、アメリカのU-2偵察機が、キューバで建設中のソビエト連邦の核ミサイル基地を撮影した。
キューバはアメリカ南部フロリダから約150km、そこへソ連の核戦力が配備されようとしていた。
アメリカはキューバ周辺を海上隔離し、ソ連船舶の接近を阻止した。
米ソ両国の軍隊は警戒態勢を強化し、核兵器を持つ二つの超大国が直接対峙し、一つの誤りが核戦争へつながる可能性があった。
後に「 Cuban Missile Crisis( キューバ危機 )」と呼ばれる13日間である。
命から危機へ
1959年、フィデル・カストロを中心とする革命勢力がキューバのバティスタ政権を倒し、新政府とアメリカの関係は急速に悪化し、キューバはソ連との関係を強めた。
1961年には、CIA の支援を受けたキューバ人亡命者部隊による Bay of Pigs Invasion( ピッグス湾侵攻 )が発生、作戦は失敗したが、キューバにとってアメリカによる軍事行動は現実の安全保障問題となった。
1962年、ソ連は秘密裏にキューバへの核ミサイル配備を進めた。
一方、アメリカもソ連に近いトルコへ Jupiter中距離弾道ミサイルを配備。
キューバには、自国への再侵攻に対する安全保障上の問題があった。
1962年10月
10月14日、U-2 偵察機がキューバ上空でソ連のミサイル基地を撮影。
16日、ジョン・F・ケネディ大統領 へ報告され、政府内に ExComm( 国家安全保障会議執行委員会 )が設置され、外交交渉、空爆、キューバ侵攻、海上封鎖などが検討された。
10月22日、ケネディ はテレビ演説でミサイル基地の存在を公表し、キューバへの攻撃兵器搬入を阻止すると発表した。
アメリカ政府は、この措置を「 blockade( 封鎖 )」ではなく、「 quarantine( 隔離 )」と呼び、海上封鎖が戦争行為と受け取られる可能性を避けた。
24日、海上隔離線の運用が始まり、同時にアメリカ軍は警戒態勢を引き上げ、Strategic Air CommandはDEFCON 2へ移行、核戦争への準備態勢は、最終段階の一つ手前であった。
Black Saturday
10月27日、危機は最も危険な局面を迎えた。
キューバ上空を飛行していたU-2偵察機が地対空ミサイルによって撃墜され、Rudolf Anderson少佐が死亡した。
同じ日、別のU-2が航法上の問題からソ連領空へ侵入し、米ソ双方の戦闘機が行動し、海中では、アメリカ海軍がソ連潜水艦B-59を追跡していた。
アメリカ側は潜水艦を浮上させるため信号用爆雷を使用した。
B-59は、核弾頭を搭載した魚雷を装備していたが、核魚雷は使用されず、潜水艦は浮上した。
交渉と収束
危機の最終局面では、ソ連首相 ニキータ・フルシチョフ と ケネディ政権 の間で交渉が続き、最終的にソ連はキューバから核ミサイルを撤去する。
アメリカはキューバへ侵攻しないことを表明、さらに公表されない形で、アメリカはトルコのJupiterミサイルを撤去することで合意した。
10月28日、フルシチョフはキューバからミサイルを撤去すると発表し、危機は収束へ向かった。
危機が変えたもの
キューバ危機が露出させたのは、核兵器そのものの危険だけではなく、航空機、艦艇、潜水艦、防空部隊、核戦力、それぞれが異なる場所で、異なる情報と命令に基づいて動いていた。
一つひとつの行動が全面戦争を目的としていなくても、それらが連鎖すれば意図しないエスカレーションが発生する可能性があり、さらに当時、米ソ首脳間には迅速な直接通信手段が存在しなかった。
1963年、両政府を直接結ぶ Washington–Moscow Direct Communications Link( 通称Hotline )が設置された。
同年にはアメリカ、ソ連、イギリスが Partial Nuclear Test Ban Treaty( 部分的核実験禁止条約 )に署名した。
冷戦 も核軍拡も終わらなかった。
しかし核時代の安全保障には、兵器の破壊力だけではなく、情報、通信、指揮統制、誤認への対処、そして危機を段階的に管理する仕組みが必要であることが鮮明になった。
「 核兵器をどう持つのか、どうすれば誤って使わないのか。」
1962年10月の13日間は、核時代における「 安全 」の意味そのものを問い直す転換点となった。
キューバ危機|時系列
1959年1月 : キューバ革命。フィデル・カストロ政権成立。
1961年4月17–20日 : ピッグス湾侵攻。CIA支援のキューバ人亡命者部隊が侵攻するが失敗。
1962年 : ソ連がキューバへの核ミサイル配備を秘密裏に開始。
10月14日 : 米U-2偵察機がキューバ上空を撮影。
10月15日 : 写真分析からソ連の中距離弾道ミサイル基地を確認。
10月16日 : ケネディ大統領に報告。ExCommが対応検討を開始。一般に「13日間」の起点。
10月22日 : ケネディがテレビ演説。ソ連ミサイル配備を公表し、キューバへの海上「隔離(Quarantine)」を発表。
10月24日 : 海上隔離が発効。米Strategic Air CommandがDEFCON 2へ移行。
10月25日 : 国連安全保障理事会で米ソが対立。米国はミサイル基地の航空写真を提示。
10月26日 : フルシチョフから書簡。キューバへの米国の不侵攻と引き換えに、ミサイル撤去を示す。
10月27日 : Black Saturday : 危機の最高潮。キューバ上空でU-2が撃墜され、Rudolf Anderson少佐が死亡。別のU-2がソ連領空へ迷入。ソ連潜水艦B-59と米海軍も接触。フルシチョフからトルコの米Jupiterミサイル撤去を求める書簡も届く。
10月28日 : フルシチョフがキューバからのソ連ミサイル撤去を公表。危機は収束へ。
11月20日 : ソ連の攻撃用ミサイル撤去などを確認後、米国が海上隔離を解除。
1963年4月 : 米国のトルコ配備Jupiterミサイル撤去が完了。
1963年6月 : 米ソ間の直接通信回線、Washington–Moscow Hotline設置で合意。
1963年8月 : 米・ソ・英が 部分的核実験禁止条約(PTBT) に署名。

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