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Cold War / 冷戦 - 二つの体制が世界を分けた時代

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冷戦 - 二つの体制が世界を分けた時代

二つの体制が世界を分けた時代

第二次世界大戦 が終結した1945年。
共通の敵であった ナチス・ドイツ が消滅した後、戦勝国だったアメリカとソビエト連邦は、異なる政治・経済体制を持つ二つの大国として残った。

アメリカでは複数政党による選挙、議会、私有財産、市場経済を基本とする体制が維持された。
ソビエト連邦では共産党による一党支配と、生産手段の国有化、国家による計画経済を中心とする体制が形成されていた。

両国の間で全面的な直接戦争が行われることはなかったが、その対立はヨーロッパだけに留まらず、国家は同盟へ分かれ、ドイツは東西に分断され、朝鮮半島でも異なる体制の国家が成立した。

アジア、アフリカ、中東、中南米にも対立の影響は広がった。
軍事だけではなく、政治、経済、外交、科学技術、情報、文化、異なる体制が世界規模で並存し、競合した約半世紀。

その時代が「 冷戦( Cold War )」と呼ばれている。

戦後世界

1945年5月、ドイツが降伏、ヨーロッパでは戦争終結後、ソビエト軍が進駐していた東ヨーロッパ諸国で共産党を中心とする政権が成立していった。

ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、チェコスロバキアなどが、ソ連と政治・経済・軍事的に強く結びついていく。

一方、西ヨーロッパ諸国はアメリカとの関係を維持した。
1946年、イギリスの元首相 ウィンストン・チャーチル は、ヨーロッパを東西に分ける状況を「 鉄のカーテン( Iron Curtain )」と表現した。
1947年、アメリカの ハリー・S・トルーマン大統領 は、ギリシャとトルコへの支援を議会に求めた、トルーマン・ドクトリン である。
同年、アメリカはヨーロッパ復興計画 - マーシャル・プランを発表した。

戦争によって大きな被害を受けた西ヨーロッパ諸国へ、大規模な経済援助が行われ、戦争が終わったヨーロッパで、新しい境界が形成され始めていた。

一つのドイツ、二つの体制

敗戦したドイツは、アメリカ、イギリス、フランス、ソビエト連邦による占領地域に分割され、首都ベルリンも同様に四つの占領区域へ分割された。

1948年、ソ連は西側占領地域から西ベルリンへ通じる陸上交通を遮断し、ベルリンを封鎖した。
同年、西側占領地域からドイツ連邦共和国西ドイツが成立、ソ連占領地域にはドイツ民主共和国東ドイツが成立した。
※ベルリン封鎖は、1949年 ベルリンの壁 崩壊まで続いた。

一つだった国家の内部に、異なる体制を持つ二つの国家が生まれた。
1961年には東西ベルリンを隔てる ベルリンの壁 が建設された。
ドイツとベルリンは、その後長期間にわたって東西分断の境界となった。

二つの同盟

1949年、アメリカ、カナダと西ヨーロッパ諸国を中心に、北大西洋条約機構NATO が成立、加盟国への武力攻撃を加盟国全体への攻撃とみなし、共同で対応する集団防衛の枠組みが作られた。
1955年、西ドイツが NATO へ加盟した。

その5日後、ソビエト連邦と東ヨーロッパ諸国はワルシャワで友好協力相互援助条約に署名、ワルシャワ条約機構の成立である。
西側には NATO、東側には ワルシャワ条約機構

ヨーロッパには、異なる体制を持つ国家群と、それぞれを結ぶ軍事同盟が存在することになった。

経済も分かれた

対立は軍事同盟だけではなかった。
西側諸国では市場経済と民間企業を中心とする経済活動が続いた。
1948年からはマーシャル・プランによる復興支援が本格化し、西ヨーロッパ諸国間の経済協力も進んだ。

東側では、生産手段の国有化と国家による計画経済が広がった。
1949年にはソビエト連邦と東ヨーロッパ諸国を中心に、経済相互援助会議COMECON が設立された。

政治体制だけでなく、経済を運営する仕組みも東西で異なっていた。
人々は異なる制度の下で働き、商品を生産し、生活した。
冷戦 は国家間の外交関係だけではなく、社会そのものの構造にも存在していた。

世界へ広がる

1949年、中国では中華人民共和国が成立した。
朝鮮半島では北に朝鮮民主主義人民共和国、南に大韓民国が成立し、1950年には朝鮮戦争に続きベトナムでも南北の分断と戦争が続いた。

1959年のキューバ革命後、キューバはソビエト連邦との関係を強めた。
1962年にはソ連がキューバへ核ミサイルを配備しようとしたことから、キューバ危機が発生している。

アフリカ、中東、中南米でも、独立運動、革命、内戦、政変の中でアメリカとソビエト連邦がそれぞれ異なる政府や勢力を支援した事例が続いた。

1950年代以降、インド、ユーゴスラビア、エジプト、インドネシアなどは、米ソいずれの軍事陣営にも正式に属さない立場を模索した。
1961年には非同盟運動( Non-Aligned Movement )の第1回首脳会議が開催され、世界には、東西二つだけではない選択も存在した。

人はどこまで自由に移動できたのか

1961年8月、市民の移動を阻止するため、東ドイツ政府は東西ベルリン間の境界を封鎖し、ベルリンの壁を建設、東ドイツから西側への移動は厳しく制限された。

一方、西側諸国にも政治的抑圧や社会的矛盾は存在した。
アメリカでは1950年代、共産主義者やその支持者と疑われた人々に対するマッカーシズムと呼ばれる調査や告発が相次いだ。

科学と技術

1957年10月4日、ソビエト連邦は世界初の人工衛星Sputnik 1を打ち上げ、1961年には ユーリ・ガガーリン が人類初の有人宇宙飛行を達成した。

アメリカは Apollo計画 を進め、1969年7月20日、Apollo 11 のNeil ArmstrongとBuzz Aldrinが月面に降り立った。

ロケット、航空機、コンピューター、通信、原子力など、冷戦期には多くの科学技術分野で大規模な国家投資が行われ、科学技術もまた、二つの体制が能力を示す場所になった。

核兵器

1945年、アメリカは世界で初めて核兵器を実戦使用した。
1949年、ソビエト連邦も原子爆弾実験に成功した。
その後、両国は水素爆弾、大陸間弾道ミサイル、潜水艦発射弾道ミサイルなどを開発し、多数の核兵器を保有するようになった。

軍拡と同時に、核兵器を制限するための交渉も行われた。
1963年には部分的核実験禁止条約、1968年には核兵器不拡散条約、1970年代にはSALT、1987年にはINF全廃条約が成立した。

体制の内側で起きたこと

1956年、ハンガリーでは政治改革を求める運動が広がり、政府は中立とワルシャワ条約からの離脱を表明したが、ソビエト軍が軍事介入した。

1968年、チェコスロバキアでは「 プラハの春 」と呼ばれる改革が進めら、
同年8月、ワワルシャワ条約機構加盟国軍がチェコスロバキアへ侵攻した。

一方、中国とソビエト連邦の関係も悪化し、1960年代には中ソ対立が明確になった。

西側でも国家間の立場は常に一致していたわけではない。
1966年、フランスは NATO の統合軍事機構から離脱し、独自の防衛政策を進めたが、NATO 加盟国に残り、2009年に統合軍事機構へ全面復帰した。

境界が開いた日

1980年代後半、ソビエト連邦では ミハイル・ゴルバチョフ の下で ペレストロイカ と グラスノスチ が進められた。

1989年、東ヨーロッパ各国で政治体制が相次いで変化、11月9日、東ドイツ政府が国外旅行に関する新たな規則を発表した後、多くの市民が国境検問所へ集まり、ベルリンの壁 はその役目を終えた。

1990年、東西ドイツは統一、1991年7月、ワルシャワ条約機構 が解散した。
同年12月、ソビエト連邦も解体、約半世紀にわたって世界の国際関係を形作った東西対立の構造は、大きな転換期を迎えた。

冷戦とは何だったのか

NATOワルシャワ条約機構 が存在し、米ソは世界各地で異なる国家や勢力を支援し、その背後には異なる社会の仕組みがあった。

そして、それぞれの体制の内部にも矛盾、対立、改革、選択が存在した。
1945年から1991年までの世界を見れば、軍事力だけでは説明できない出来事が数多く残されている。

冷戦 が残したのは、二つの大国が対立した歴史だけではない。
異なる社会の仕組みが同じ世界に存在し、それぞれがどのように動いたのかを示した長い記録でもある。


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