MVP ARCHIVE HISTORY | Perestroika & Glasnost / ペレストロイカとグラスノスチ - ソ連を立て直すために始まった改革、そして開かれた社会

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ペレストロイカとグラスノスチ - ソ連を立て直すために始まった改革、そして開かれた社会
Introduction
1985年、ミハイル・ゴルバチョフ がソビエト連邦共産党書記長に就任、当時のソ連では、長期的な経済停滞、生産性の低下、官僚機構の硬直化など、多くの問題が表面化していた。
ゴルバチョフ政権 は、ソ連という国家を維持しながら、改革を試みた。
Perestroika――ペレストロイカ( 再構築 )
Glasnost――グラスノスチ( 公開性 )
一つは国家と経済の仕組みを変えようとする改革とそれまで制限されていた情報や議論を社会へ開いていく政策。
停滞するソ連
1960年代後半から1980年代初頭にかけて、ソ連経済の成長は次第に鈍化してき、国家による中央計画経済の下では、生産量や価格、資源配分など多くの経済活動が行政によって管理されていた。
1980年代には、西側諸国との技術格差、生活物資の不足、農業生産の問題、国家財政への負担なども存在し、ゴルバチョフ は、このままではソ連の発展が困難になると判断した。
Perestroika ― 再構築
Perestroika はロシア語で「 再構築 」を意味する。
社会主義体制を改革し、機能を回復させること。
企業に一定の経営自主性を与え、市場的な仕組みの一部を導入し、経済活動の効率化を図る改革が進められた。
さらに改革は政治制度にも広がり、1988年には人民代議員大会の設置が決定され、翌1989年には候補者を選択できる競争的な選挙が実施された。
Glasnost ― 公開性
Perestroikaと並行して進められたのが Glasnost だった。
報道や出版に対する規制が緩和され、それまで公に語ることが難しかった問題について議論できる範囲が広がった。
スターリン 時代の政治的弾圧、経済政策の失敗、官僚機構の問題、社会問題、歴史認識、過去の政治的弾圧を受けた人々の名誉回復も進められた。
Chernobyl
1986年4月26日、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の チェルノブイリ原子力発電所で重大事故 が発生した。
事故直後、ソ連政府による情報公開は限定的で、放射性物質は国境を越えて検出され、事故の存在は国外からも確認されることになる。
チェルノブイリ事故 への対応は、情報を管理する従来の国家体制が抱える問題を表面化させ、その後、事故に関する情報公開は拡大した。
表面化する問題
情報公開が進むと、ソ連社会に存在していたさまざまな問題が公に議論されるようになると同時に、ソ連を構成する共和国や民族の間でも、それまで抑制されていた要求が表面化した。
バルト三国では独立を求める運動が拡大、アルメニア、アゼルバイジャン、ジョージアなどでも民族・領土・政治をめぐる問題が顕在化した。
東ヨーロッパの変化
それまでソ連は、東ヨーロッパの社会主義国家に対して大きな政治的・軍事的影響力を持っていた。
しかし ゴルバチョフ政権 は、各国が自らの政治体制を選択することを認める方向へ政策を転換した。
1989年、ポーランド、ハンガリー、東ドイツ、チェコスロバキアなどで政治体制が相次いで変化、ソ連軍による大規模な軍事介入は行われなかった。
11月9日、ベルリンの壁 が開放され、冷戦を象徴してきた東西分断の境界が、人々によって越えられていった。
改革が生んだ新しい政治
1990年、ソ連憲法第6条が改正され、共産党による政治的指導を保証していた制度的基盤が失われ、複数の政治勢力が活動する余地が広がった。
同時に、各共和国では主権や独立を求める動きが強まった。
しかし経済改革は期待された成果を十分に上げることができず、従来の計画経済が弱まる一方、新しい経済制度への移行も混乱を伴い、物資不足や経済的不安も続いた。
1991
1991年8月、改革に反対する共産党・政府・軍などの保守派によるクーデターが発生、ゴルバチョフ はクリミアで軟禁された。
しかしクーデターは数日で失敗、その過程で、ロシア共和国大統領ボリス・エリツィンの政治的影響力が急速に高まった。
その後、各共和国の独立が相次いぎ、12月25日、ゴルバチョフ はソ連大統領を辞任、翌26日、ソビエト連邦は正式に消滅した。
改革は何を変えたのか
Perestroika と Glasnost の目的は、停滞していたソ連を改革し、国家と社会主義体制を再生することだった。
しかし改革によって経済運営の仕組みが変化、情報統制が緩和され、過去の問題が公開、政治参加が拡大した。
同時に共和国や民族の要求が表面化した。
ソ連崩壊には経済停滞、民族問題、政治対立、共和国間関係など複数の要因が存在し、Perestroika と Glasnost だけによって説明することはできないが、この改革がソ連社会の構造を大きく変えたことは確かである。
歴史が残したもの
改革によって、それまで見えにくかった問題が社会へ現れ、人々は議論し、選択し、政治へ参加する範囲を広げていった結果、改革を始めた時点で想定されていた範囲を越えて変化が進んでいった。
1985年に始まった改革から約6年、1991年、ソビエト連邦は消滅した。
改革は国家を維持することには成功しなかったが、長く固定されていた政治、情報、社会の境界は大きく動いた。
体制を立て直すために始められた改革は、やがて体制そのものを問い直す変化へとつながっていった。
What We Know
二つの改革はソ連社会の政治・経済・情報環境を大きく変化させた。
1989年には東ヨーロッパ各国で政治体制が相次いで変化し、ベルリンの壁 が開放され、1990年にはソ連共産党による政治的独占を支えていた憲法上の規定が改正され、1991年、ソビエト連邦は解体された。
Perestroika と Glasnost それは、ソ連を維持するために始められた改革だった。

