【小説】「君と見上げた、夏空のその先へ」第1章「運命の出会い」
第1章「運命の出会い」
四月。
校門脇の桜は、満開を少し過ぎていた。
風が吹くたびに花びらが舞い上がり、通学路を歩く生徒たちの肩へそっと降り積もる。
「やばい!」
腕時計を見た瞬間、僕――高橋 悠真は思わず声を上げた。
朝練が長引き、急いで部室で着替えていたら始業まであと三分しかない。
「悠真! また遅刻するぞ!」
野球部の親友・健太が笑いながら叫ぶ。
「笑ってる場合じゃない!」
バッグを肩に掛け、全力で校舎へ走る。
グラウンドで鍛えた足なら間に合う。
そう思った、その瞬間だった。
校舎の角を曲がると同時に、小さな悲鳴が聞こえた。
「きゃっ!」
ドン。
柔らかな衝撃。
抱えていたノートが宙に舞い、桜の花びらと一緒に地面へ散らばった。
「ご、ごめん!」
慌ててしゃがみ込み、ノートを拾おうとすると、目の前で同じように手を伸ばした相手と指先が触れた。
「……あ。」
二人同時に手を引っ込める。
「こちらこそ、ごめんね。」
その声は、春風みたいに優しかった。
顔を上げた僕は、言葉を失う。
朝日に照らされた長い髪。
優しく笑う瞳。
散らばった一冊のノートには、
「朝倉 美咲」
と書かれていた。
「ありがとう。」
そう言って笑う彼女の笑顔は、校庭いっぱいの桜よりも眩しく見えた。
胸の奥が、少しだけ騒いだ。
「高橋!」
教室から先生の怒鳴り声が飛ぶ。
「また遅刻か!」
「す、すみません!」
慌てて立ち上がると、美咲が小さく吹き出した。
「ふふっ。」
その笑い声を聞いただけで、不思議と怒られたことなんてどうでもよくなってしまった。
その日から。
野球だけを見つめていた毎日に、ほんの少し違う色が差し込んだ気がしたのだった。
けれど、この時の僕はまだ知らない。
彼女が誰にも言えない秘密を抱えていることを。
そして、この出会いが、仲間との絆や甲子園への夢、家族との葛藤、そして涙の未来へとつながっていくことも――。

翌朝。
悠真はいつもより十五分早く家を出た。
「お、今日は珍しいな。」
朝食の片づけをしながら母が笑う。
「ちょっと早く学校へ行こうと思って。」
「朝練の前に予習でもするの?」
「……そんな感じ。」
本当は違う。
もしかしたら、昨日ぶつかったあの子にまた会えるかもしれない。いや同じクラスだから当然か。
自分でも少し照れくさく思った。
校門へ向かう坂道。
桜の花びらが風に乗って舞う。
その先に、小さな背中が見えた。
「朝倉さん……。」
思わず名前を口にすると、彼女が振り返る。
「あっ!」
昨日と同じ笑顔だった。
「おはよう、高橋くん。」
名前を覚えていてくれた。
それだけで胸が熱くなる。
「お、おはよう。」
「昨日は本当にごめんね。」
「いや、僕のほうこそ。」
少し沈黙が流れる。
「野球部なんだよね?」
「うん。」
「朝練、大変そう。」
「でも好きだから。」
その言葉を聞いた美咲は優しく笑った。
「好きなことを一生懸命できる人って、すごく素敵だと思う。」
その一言は、誰よりもうれしかった。
昼休み。
「おい悠真!」
親友の健太がパンを片手に笑う。
「朝、誰と歩いてた?」
「べ、別に。」
「顔真っ赤だぞ。」
周りの友達まで笑い始める。
「野球部エース候補に春到来!」
「違うって!」
教室は笑い声でいっぱいになった。
悠真も照れながら笑った。
放課後。
グラウンドでは白球を打つ音が響く。
監督の厳しい声。
汗で濡れるユニフォーム。
「あと一本!」
その言葉だけを信じてバットを振る。
フェンス越しに誰かが立っていることに気づいた。
美咲だった。
友達と話しながらも、練習をじっと見ている。
目が合う。
彼女は小さく手を振った。
その瞬間、不思議なくらい体が軽くなった。
快音。
打球は青空へ高く伸びていく。
「ナイスバッティング!」
健太が背中を叩く。
悠真は照れ笑いを浮かべながら、フェンスの向こうを見る。
そこには拍手をする美咲の姿があった。
数日後。
図書室。
参考書を探していた悠真は、窓際で本を読む美咲を見つけた。
教室ではいつも明るい彼女が、その日は少し違って見えた。
どこか寂しそうだった。
「朝倉さん?」
声をかけると、彼女は慌てて本を閉じる。
「あ、高橋くん。」
笑っている。
でも、その笑顔は少しだけ無理をしているように見えた。
「どうしたの?」
「ううん、何でもない。」
そう答えながら窓の外を見る。
夕焼けが校庭を赤く染めていた。
「夕日、きれいだね。」
「うん。」
短い会話。
それでも、その沈黙は不思議と心地よかった。
帰り際、美咲は小さくつぶやく。
「……ありがとう。」
「え?」
「何でもない。」
その笑顔の奥にある寂しさの理由を、このときの悠真はまだ知らなかった。
帰宅途中。
河川敷にはオレンジ色の夕日が広がっていた。
グローブを肩に掛けた悠真は空を見上げる。
「甲子園にも行きたい。」
そして心の中で、もう一つの願いが生まれていた。
「もっと朝倉さんのことを知りたい。」
風が吹く。
川面がきらきらと揺れる。
その風は、二人の運命を少しずつ動かし始めていた。
遠くで野球ボールを握る誰かの姿が夕日に溶け込む。
それは、まだ悠真の知らない"ライバル"だった――。

