【小説】「君と見上げた、夏空のその先へ」第2章「少しずつ近づく二人」
第2章「少しずつ近づく二人」
ゴールデンウィークが明けると、校舎の窓から吹き込む風は、春のやわらかさに少しだけ夏の匂いをまとい始めた。
野球部では夏の大会へ向けて練習量が増え、悠真は毎日、朝日より早くグラウンドに立ち、夕焼けが空を赤く染める頃まで白球を追い続けていた。
「悠真、水!」
練習が終わると、健太がスポーツドリンクを投げてよこす。
「サンキュ。」
「最近、練習中でもニヤニヤしてるぞ。」
「してない。」
「いや、してる。」
部員たちが笑い出す。
「朝倉さんのおかげじゃないのか?」
「だから違うって!」
グラウンドは笑いに包まれた。
その笑い声を聞いていたマネージャーが首をかしげる。
「でも、高橋くんって前より明るくなったよね。」
悠真は照れくさそうに頭をかいた。
翌日の昼休み。
購買で最後の焼きそばパンを手に取ろうとした瞬間、もう一本の手が伸びた。
「あっ。」
振り向くと、美咲だった。
二人は顔を見合わせ、思わず吹き出す。
「また同じタイミング。」
「運命……だったりして。」
冗談っぽく笑う美咲に、悠真の心臓は大きく跳ねた。
「じゃあ、半分こしよっか。」
校舎裏のベンチ。
焼きそばパンを分け合いながら、二人はゆっくり話をした。
好きな教科。
苦手な教科。
好きな音楽。
将来の夢。
「高橋くんは?」
「甲子園。」
迷いなく答えた。
美咲は目を細めて微笑む。
「きっと行けるよ。」
「どうして?」
「夢を話すときの目が、本気だから。」
その言葉は、どんな応援よりも力になった。
数日後。
放課後の図書室。
美咲は一冊の文庫本を悠真へ差し出した。
「これ、面白かったよ。」
「僕、本読むの苦手で……。」
「じゃあ挑戦。」
「宿題みたいだな。」
「感想、ちゃんと聞くからね。」
笑いながら本を受け取る。
帰宅後、開いた一ページ目には、小さな栞が挟まっていた。
そこには丸い字で書かれている。
『夢は、一人で追いかけるより、誰かと応援し合うほうが遠くまで届く。』
悠真は何度もその言葉を読み返した。
翌週の日曜日。
野球部の練習試合。
スタンドには保護者や生徒が集まっていた。
試合前、緊張で手が震える。
そのとき。
「高橋くーん!」
振り向くと、美咲が手を振っていた。
「応援に来たよ!」
思わず笑顔になる。
健太が小声で耳打ちした。
「今日、絶対打てるな。」
「うるさい。」
試合開始。
初打席は三振。
悔しさで唇を噛む。
ベンチへ戻る途中、美咲が両手で大きく丸を作った。
『次!』
声は聞こえない。
でも、その笑顔だけで十分だった。
二打席目。
高めのストレート。
迷いなく振り抜く。
快音。
打球はセンターの頭上を越え、フェンス直撃のツーベースヒット。
スタンドから歓声が上がる。
一塁ベースを蹴り、二塁へ滑り込んだ悠真は、思わず美咲を見た。
彼女は誰よりもうれしそうに拍手をしていた。
試合後。
夕暮れの河川敷。
「ナイスヒット。」
「ありがとう。」
二人は並んで歩く。
しばらく沈黙が続いたあと、美咲がぽつりとつぶやく。
「私ね……。」
その声は、今にも消えてしまいそうだった。
「昔、お父さんがよく野球を教えてくれたんだ。」
初めて聞く家族の話。
「でも、今は一緒に住んでないの。」
そう言って笑おうとする。
けれど、その笑顔はどこか切なかった。
悠真は何も聞かなかった。
聞けなかった。
代わりに静かに言う。
「また試合、見に来てよ。」
美咲は少し驚いたように目を丸くし、それからいつもの笑顔を見せた。
「うん。約束。」
二人の小指が、照れながらそっと触れる。
小さな約束だった。
しかし、その約束を大きく揺るがす出来事が、すぐそこまで迫っていることを、二人はまだ知らない。
グラウンドでは、新たな実力者が転校してくるという噂が流れ始めていた。
そして、その少年は――悠真だけでなく、美咲の過去とも深く関わる人物だった。

梅雨入りを目前に控えたある朝。
校庭には薄い霧がかかり、湿った土の匂いが風に乗って漂っていた。
ホームルームが始まる直前、担任の佐伯先生が教室へ入ってくる。
「今日はみんなに紹介したい生徒がいる。」
教室がざわつく。
「転校生だ。」
ドアが静かに開く。
背の高い男子生徒が一礼した。
「今日からこのクラスになりました、**神崎 蓮(かんざき れん)**です。よろしくお願いします。」
落ち着いた声だった。
整った顔立ちに、どこか人を寄せつけない雰囲気をまとっている。
女子たちが小さく歓声を上げる。
「かっこいい……。」
そんな声があちこちから聞こえた。
しかし、悠真が気になったのは蓮ではなかった。
その瞬間、美咲の表情が一瞬だけ曇ったことだった。
ほんの数秒。
けれど、その笑顔の消え方は見逃せなかった。
昼休み。
蓮は一人で窓際に座り、静かに本を読んでいた。
「話しかけてみるか。」
健太に背中を押され、悠真は近づく。
「野球、興味ある?」
蓮は顔を上げ、小さく笑った。
「前の学校では野球部だった。」
「本当?」
「ピッチャー。」
悠真の目が輝く。
「夏の大会、一緒に目指そう!」
その言葉に蓮は少しだけ考え、静かにうなずいた。
「よろしく。」
その握手は力強かった。
放課後。
蓮はさっそく野球部へ入部した。
監督はシートバッティングを命じる。
マウンドへ立つ蓮。
第一球。
ズバンッ!
捕手のミットが大きく鳴る。
「速い……。」
部員たちは息をのんだ。
続く二球目。
三球目。
誰もまともに前へ飛ばせない。
悠真も打席へ入る。
「お願いします。」
蓮は小さくうなずいた。
投げ込まれたストレート。
速い。
だが、最後まで目を切らなかった。
カキーン!
打球はセンター前へ抜けていく。
グラウンドに拍手が響いた。
蓮は初めて笑った。
「さすがだ。」
「ありがとう。」
二人は自然と笑い合った。
ライバルであり、仲間。
そんな予感がした。
その日の帰り道。
河川敷には雨上がりの虹がかかっていた。
悠真は偶然、美咲と並んで歩く。
「あの転校生……。」
美咲が虹を見上げながらつぶやく。
「知り合いなの?」
少しだけ間が空いた。
「……小さい頃、一緒によく遊んでた。」
「そうなんだ。」
「でも、急に引っ越しちゃって。」
その声には懐かしさと、どこか後悔のような響きが混じっていた。
「また会えるなんて思わなかった。」
悠真は胸の奥が少しだけざわつくのを感じた。
理由は分からない。
ただ、美咲が自分の知らない時間を誰かと共有していたことが、少しだけ寂しかった。
翌週。
雨が降る放課後。
昇降口で靴を履き替えていると、美咲が困った顔で立ち止まっていた。
「傘、忘れちゃった……。」
そのとき。
「朝倉。」
蓮が自分の傘を差し出した。
「使って。」
「でも……。」
「風邪ひくぞ。」
美咲は少し迷いながら受け取る。
その様子を少し離れた場所から見ていた悠真は、カバンの中の折りたたみ傘を握ったまま立ち尽くしていた。
渡そうと思っていた。
ほんの少し勇気を出せばよかった。
それなのに、一歩が踏み出せなかった。
胸の奥が、雨空のように重くなる。
健太が肩を軽く叩いた。
「恋って、タイミングなんだな。」
悠真は苦笑いするしかなかった。
その夜。
グローブを磨きながら、悠真は窓の外を見つめる。
降り続く雨。
ガラスを伝う雫。
「負けたくない。」
野球でも。
恋でも。
初めてそう思った。
しかし、その想いとは裏腹に、美咲の心は少しずつ揺れ始めていた。
幼い頃の思い出。
今、目の前にいる悠真。
そして突然戻ってきた蓮。
三人の運命は、静かな雨音とともに大きく動き始める――。

