【小説】「君と見上げた、夏空のその先へ」第3章「友情と恋の始まり」
第3章「友情と恋の始まり」
六月。
梅雨空が続く毎日だったが、高校生活は雨では止まらない。
グラウンドに水が浮けば室内練習へ、教室では期末テストの話題が飛び交い、生徒たちはそれぞれの「今」を懸命に生きていた。
悠真もその一人だった。
放課後、野球部の練習を終えて教室へ戻ると、自分の机の上に一冊のノートが置かれていた。
表紙には丸く優しい字で書かれている。
「数学ノート 朝倉美咲」
「えっ……?」
ページを開くと、苦手な二次関数が色分けされ、分かりやすくまとめられていた。
最後のページには、小さな付箋。
『野球ばかりじゃ赤点だよ。ちゃんと勉強もしなきゃね。応援してる! 美咲』
思わず笑みがこぼれる。
「ありがとう……。」
誰もいない教室で、小さくつぶやいた。
翌日。
昼休みの図書室。
「ノート、ありがとう。」
悠真が頭を下げると、美咲は照れくさそうに笑った。
「テストで赤点取って大会に出られなかったら困るでしょ?」
「そこまで心配されてたのか。」
「もちろん。」
二人は顔を見合わせて笑う。
その様子を、本棚の向こうから蓮が静かに見つめていた。
彼は何も言わず、本を閉じると図書室をあとにした。
その日の放課後。
野球部は校内の清掃活動を任されていた。
「健太、ちゃんと掃け!」
「監督が見てないから大丈夫!」
「見えてるぞ。」
監督の低い声に、部員たちは大慌て。
「うわっ!」
健太がバケツにつまずき、水をぶちまける。
逃げようとした拍子に悠真まで転び、二人ともびしょ濡れになった。
そこへ偶然通りかかった美咲は、お腹を抱えて笑い始めた。
「もう、二人とも子どもみたい!」
その笑顔につられて、みんなも笑う。
雨続きだった校舎に、久しぶりの明るい笑い声が響いた。
数日後。
期末テストが終わった放課後。
美咲が言った。
「たまには寄り道しない?」
「寄り道?」
「河川敷まで。」
風が草を揺らし、遠くで子どもたちの笑い声が聞こえる。
二人はコンビニで買ったアイスを食べながら歩いた。
「高橋くんって、子どもの頃から野球?」
「うん。父さんが昔、甲子園を目指してたんだ。」
「そうなんだ。」
「でもケガで夢をあきらめたらしい。」
悠真は少し笑う。
「だから今度は、僕がその夢をかなえたい。」
美咲は立ち止まり、静かに空を見上げた。
「素敵だね。」
「朝倉さんは?」
そう聞くと、美咲は少し困ったように笑う。
「私ね……。」
言いかけて、やめた。
「また今度話す。」
その笑顔は優しかった。
でも、どこか悲しかった。
その帰り道。
橋の上で突然雨が降り始めた。
「うわっ!」
二人は慌てて橋の下へ駆け込む。
「また雨だね。」
「最近多いね。」
沈黙。
雨音だけが響く。
美咲の肩に、小さな雨粒が残っていた。
悠真はハンカチを差し出す。
「使う?」
「ありがとう。」
受け取ると、美咲は少し照れたように笑った。
「高橋くんって、本当に優しいね。」
その一言だけで、悠真の胸はいっぱいになった。
その頃。
校舎の窓から、橋の下の二人を見つめる人影があった。
蓮だった。
「……。」
何も言わず、静かに目を閉じる。
幼い頃、一緒に笑った少女。
もう一度会えたと思ったその日に、彼女の隣には別の誰かがいた。
その胸の奥にもまた、誰にも言えない想いが芽生え始めていた。
そして数日後。
野球部に、夏の大会の組み合わせが発表される。
初戦の相手は、県内屈指の強豪校。
甲子園への夢が、いよいよ現実として動き出す。
恋も、友情も、夢も。
誰もまだ、この夏が人生を変える季節になるとは知らなかった。

七月。
校庭では、蝉が今年最初の大合唱を始めていた。
終業式まであと二週間。
夏の大会を目前に控えた野球部には、これまで以上の緊張感が漂っていた。
「今日は百本ノックだ!」
監督の声がグラウンドに響く。
「返事!」
「はい!」
部員たちの声が青空へ突き抜ける。
汗が土へ落ちるたび、甲子園への夢が少しずつ形になっていくようだった。
練習後。
部室で着替えていると、健太がタオルを首に掛けたまま笑った。
「悠真。」
「ん?」
「朝倉さんのこと、好きなんだろ?」
「ぶっ!」
飲んでいたスポーツドリンクを吹き出しそうになる。
「な、何言ってるんだよ!」
「隠せてると思ってるの、お前だけだぞ。」
部員たちが一斉に笑い出す。
「試合では冷静なのに恋は一年生以下だな。」
「うるさい!」
笑い声が部室いっぱいに広がる。
その空気が、張り詰めていた緊張を少しだけ和らげてくれた。
翌日の放課後。
美咲は一人、音楽室でピアノを弾いていた。
静かな旋律が廊下まで流れてくる。
偶然通りかかった悠真は、その音色に足を止めた。
教室で見せる明るい笑顔とは違う。
どこか寂しさを抱えた、優しい音だった。
曲が終わると、美咲が振り返る。
「あ、高橋くん。」
「ピアノ弾けるんだ。」
「昔、お母さんが教えてくれて。」
そう言って鍵盤をそっとなでる。
「でも最近は、あまり弾いてなかった。」
「どうして?」
美咲は少し考えて、小さく息をついた。
「お母さん、三年前から入院してるの。」
悠真は言葉を失った。
「病気なの。」
「……。」
「明るくしてないと、お母さんが心配するから。」
笑おうとする美咲。
でも、その瞳には涙が浮かんでいた。
悠真は何も言えなかった。
励ましの言葉なんて見つからない。
だから代わりに、静かに隣へ座る。
「一人じゃない。」
それだけを伝えたかった。
美咲は涙をぬぐい、小さくうなずく。
「ありがとう。」
その一言は、震えていた。
数日後。
夏の大会前、最後の休日。
悠真と健太は必勝祈願のため、町外れの神社を訪れた。
蝉の鳴き声。
石段を吹き抜ける風。
二人とも手を合わせる。
「甲子園へ行けますように。」
悠真も静かに祈った。
その帰り道。
偶然、美咲と蓮が神社へやって来た。
「すごい偶然。」
美咲が笑う。
蓮も少しだけ表情を和らげた。
四人で境内の屋台に立ち寄ると、射的を見つけた健太が目を輝かせる。
「勝負だ!」
結果は全員惨敗。
最後に挑戦した悠真だけが、小さな野球ボールのキーホルダーを落とした。
「やった!」
「おお!」
みんなが拍手する。
悠真は少し照れながら、そのキーホルダーを美咲へ差し出した。
「お守り代わりに。」
「え?」
「応援してくれるお礼。」
美咲は驚いたように目を見開き、両手で大切そうに受け取った。
「……ありがとう。」
その笑顔は、これまでで一番輝いていた。
だが、その様子を見つめる蓮の表情は、少しだけ曇っていた。
大会前夜。
夜風がカーテンを揺らす。
悠真はグローブを磨きながら、父の古い写真を見つめていた。
高校球児だった頃の父。
ユニフォーム姿で笑っている。
「父さん。」
写真に向かって小さくつぶやく。
「明日、絶対に勝つ。」
その頃、美咲も病院にいた。
眠る母の手をそっと握る。
「明日ね。」
窓の外の星空を見上げながら微笑む。
「高橋くんの試合、応援してくるね。」
病室には静かな夜が流れていた。
その静けさとは対照的に、夏は確実に動き始めていた。
そして翌朝――。
甲子園への第一歩となる試合の幕が、いよいよ上がる。
誰も予想していなかった運命の一球が、彼らの未来を大きく変えることになるとは、まだ誰も知らなかった。

