【小説】「君と見上げた、夏空のその先へ」第6章「夏大会と夢」
第6章「夏大会と夢」
十月。
校庭を吹き抜ける風は、すっかり秋の匂いをまとっていた。
文化祭の熱気が去った校舎には、いつもの日常が戻っている。
しかし、悠真の毎日は以前とは少し違っていた。
朝、校門で「おはよう」と笑い合うこと。
昼休みに図書室で他愛もない話をすること。
放課後、ほんの少しだけ一緒に歩いて帰ること。
そんな何気ない時間が、かけがえのない宝物になっていた。
「おはよう!」
いつものように美咲が手を振る。
「おはよう。」
その笑顔を見た悠真は安心した。
文化祭の日、屋上で見せた涙。
あれ以来、美咲は何事もなかったように笑っている。
だからこそ、悠真は少しだけ不安だった。
本当に大丈夫なのだろうか。
その日の昼休み。
野球部では、来年の夏へ向けた新チームが本格的に始動した。
監督が選手たちを前に話し始める。
「今年の悔しさを忘れるな。」
グラウンドは静まり返る。
「甲子園は努力した者だけが立てる場所だ。」
監督は悠真を見た。
「高橋。」
「はい!」
「新チームのキャプテンを任せる。」
部員たちが拍手する。
健太が肩を叩いた。
「おめでとう!」
「責任重大だな。」
悠真はうれしさと同時に、大きな責任を感じていた。
その日の放課後。
自主練習を終えた悠真は、病院へ向かう美咲を見かけた。
「一緒に行ってもいい?」
少し驚いた表情を見せたあと、美咲は小さくうなずいた。
病院までの道。
夕暮れが街を優しく染めている。
「お母さん、最近どう?」
悠真がそっと尋ねる。
美咲は少し黙ってから答えた。
「少し疲れやすくなったかな。」
その声は明るく聞こえた。
でも、その指先は制服の裾をぎゅっと握り締めていた。
病室。
「こんにちは。」
悠真は緊張しながら頭を下げる。
ベッドの上の母・陽子は穏やかに笑った。
「あなたが高橋くん?」
「はい。」
「いつも美咲がお世話になっています。」
「こちらこそ。」
陽子は二人を見比べて優しく笑う。
「美咲がこんなに楽しそうに学校の話をするようになったのは久しぶりなの。」
美咲は恥ずかしそうに顔を赤くする。
「お母さん!」
病室に笑い声が広がる。
その時間だけは、病気のことを忘れられるようだった。
帰り道。
病院の玄関を出ると、空には満天の星が広がっていた。
「今日はありがとう。」
美咲が静かに言う。
「お母さん、すごく喜んでた。」
「僕も会えてよかった。」
少し歩いたあと、美咲が立ち止まる。
「ねえ。」
「うん。」
「もしね……。」
言葉が止まる。
「何でもない。」
そう笑う美咲。
しかし、その笑顔はどこか無理をしているようだった。
その夜。
病院のナースステーション。
担当医はカルテを閉じ、小さく息をついた。
「検査結果ですが……。」
陽子は静かに耳を傾ける。
「病状が進行しています。」
「……そうですか。」
「ご家族にも、今後のお話をしたいと思います。」
陽子は窓の外に輝く星を見つめた。
そして、小さくつぶやく。
「もう少しだけ……。」
「もう少しだけ、あの子の笑顔を見ていたい。」
翌朝。
病院から一本の電話が鳴る。
学校へ向かおうとしていた美咲は、その着信に胸騒ぎを覚えた。
電話の向こうから聞こえた看護師の声。
「お母さまの容体が急変しました。」
スマートフォンが手から滑り落ちる。
青空の下で立ち尽くす美咲。
その頃、何も知らない悠真は、グラウンドで白球を追い続けていた。
二人の運命は、この一本の電話によって、大きく動き始める。

朝の空は、雲ひとつない青だった。
あまりにも穏やかな空だったからこそ、その一本の電話は残酷だった。
「お母さまの容体が急変しました。すぐに病院へお越しください。」
その言葉を聞いた瞬間、美咲の頭の中は真っ白になった。
「……はい。」
震える声で返事をすると、スマートフォンが手から滑り落ちる。
アスファルトに当たる乾いた音だけが、静かな朝に響いた。
「美咲!」
偶然、登校途中だった蓮が駆け寄る。
美咲の青ざめた表情を見て、すぐに異変を察した。
「病院?」
美咲は涙をこらえながらうなずく。
「お母さんが……。」
それ以上は言葉にならなかった。
「行こう。」
蓮は迷わずタクシーを止めた。
「運転手さん、伏見総合病院までお願いします。」
車が走り出す。
車内では、美咲はずっと両手を握り締めていた。
蓮は何も聞かなかった。
ただ静かに隣に座り、「大丈夫」というようにそっと肩へ手を添えた。
一方その頃。
グラウンドでは新チームの練習が始まっていた。
「悠真!」
健太が息を切らしながら走ってくる。
「朝倉さん、今日学校休んでる。」
「体調でも悪いのかな。」
「さっき先生が病院って言ってた。」
胸騒ぎがした。
何かが起きている。
理由は分からない。
でも、嫌な予感だけははっきりしていた。
放課後。
悠真は練習を終えると、そのまま病院へ向かった。
病室の前。
そこには蓮が立っていた。
「高橋。」
「朝倉さんは?」
蓮は静かに病室の扉を見つめた。
「中にいる。」
「……。」
二人はそれ以上、何も話さなかった。
ライバルでも、今は同じ気持ちだった。
ただ、美咲の力になりたい。
それだけだった。
病室。
酸素マスクをつけた母・陽子が眠っている。
美咲はその手を握ったまま、小さく泣いていた。
「お母さん……。」
その声に反応するように、陽子はゆっくり目を開ける。
「美咲……。」
「ここにいるよ。」
「泣かないで。」
かすれた声だった。
「あなたが笑っている顔が、お母さんは一番好きだから。」
涙が止まらない。
「……うん。」
「約束して。」
「どんなことがあっても、自分の幸せをあきらめないで。」
美咲は何度も何度もうなずいた。
「約束する。」
陽子は安心したように微笑み、ゆっくり目を閉じた。
その手は、まだ温かかった。
病室を出た美咲は、廊下の長椅子へ座り込んだ。
もう涙をこらえられなかった。
「怖い……。」
その声を聞いた悠真は、ゆっくり隣へ座る。
「怖くて当たり前だよ。」
美咲は首を横に振る。
「私、お母さんの前では笑ってなきゃって思ってた。」
「でも、本当は苦しかった。」
「一人で頑張りすぎたね。」
悠真のその一言で、張り詰めていた心がほどけた。
美咲は声を上げて泣いた。
悠真は何も言わず、ただ隣にいた。
慰める言葉よりも、そばにいることのほうが大切な夜がある。
その夜は、まさにそんな夜だった。
病院の屋上。
夜風が静かに吹いている。
蓮は一人、街の明かりを眺めていた。
そこへ健太が缶コーヒーを二本持って現れる。
「はい。」
「ありがとう。」
健太は笑って言う。
「悠真のこと、ライバルだと思ってる?」
蓮は少し笑う。
「思ってる。」
「でも。」
夜空を見上げながら続けた。
「勝ち負けじゃない恋もあるんだな。」
その横顔は、どこか大人びて見えた。
数日後。
陽子の容体は一時的に落ち着いた。
医師は慎重な表情で話す。
「安心はできませんが、今は回復しています。」
その言葉に、美咲は深く頭を下げた。
病院を出ると、秋風が頬をなでる。
空を見上げる。
どこまでも澄んだ青空だった。
「お母さんとの約束、守らなきゃ。」
その瞳には、以前より少しだけ強い光が宿っていた。
そして悠真もまた、野球ノートに新しい目標を書き込む。
『甲子園に行く。そして、大切な人を笑顔にする。』
二人はそれぞれの夢へ向かって歩き始める。
しかし、その穏やかな日々は長くは続かなかった。
冬の足音とともに、二人の心を引き裂く「すれ違い」が静かに始まろうとしていた。

