【小説】「君と見上げた、夏空のその先へ」第9章「想いを伝える決意」
第9章「想いを伝える決意」
一月。
新しい年を迎えた町は、凛とした冷たい空気に包まれていた。
グラウンドには霜が降り、白く染まった土を踏みしめながら、野球部は朝六時から走り込みを始める。
「ラスト一周!」
悠真の声が冬空に響く。
キャプテンとして迎える初めての冬。
誰よりも声を出し、誰よりも走る。
それが今の自分にできることだった。
「ナイスラン!」
健太が笑いながら親指を立てる。
「去年のお前なら、こんなに大きな声は出せなかったな。」
悠真も笑った。
「少しは成長したかな。」
「少しどころじゃない。」
蓮が横から言う。
「チームがまとまってるのは、お前のおかげだ。」
その言葉に、悠真は少し照れくさそうに頭をかいた。
一方、東京。
高層ビルの間を冷たい風が吹き抜ける。
美咲は病院のラウンジで教科書を開いていた。
母・陽子の容体は落ち着いていたものの、入院生活は続いている。
「学校の勉強、大丈夫?」
母が心配そうに尋ねる。
「うん。」
美咲は笑顔で答える。
「向こうの先生たちがプリント送ってくれるから。」
「そう。」
陽子は安心したように微笑む。
「友達とは連絡取ってる?」
その質問に、美咲は少しだけ黙った。
「……うん。」
本当は、毎日スマートフォンを開いていた。
悠真から届く短いメッセージ。
『今日は雪が積もった。』
『監督が少し元気になったよ。』
『今年は絶対に強くなる。』
たった数行の言葉なのに、不思議なくらい心が温かくなる。
美咲も返信を書く。
『東京も寒いよ。』
『お母さん、今日は少し笑ってくれた。』
『春になったら会いたい。』
画面越しの会話だけでも、二人の距離は少しずつ近づいていた。
二月。
高校ではバレンタインデーが近づき、教室はどこか落ち着かない空気に包まれていた。
「悠真。」
健太がニヤニヤしながら近寄る。
「今年はチョコもらえそうだな。」
「からかうなよ。」
「いや、本気。」
すると女子たちが笑いながら声をかける。
「高橋くん、キャプテン頑張ってるもんね。」
「応援してるよ。」
机の上には、小さな義理チョコがいくつか置かれていた。
「ありがと。」
照れながら受け取る悠真。
その様子を見て、健太は大げさに肩を落とす。
「世の中、不公平だ……。」
教室は笑いに包まれた。
その日の夕方。
病院の屋上。
東京の夕焼けは、どこか知らない街の色だった。
美咲はポケットから小さな箱を取り出す。
中には手作りのチョコレート。
「渡したかったな……。」
結局、渡せないままになってしまった。
ふとスマートフォンが震える。
悠真から写真が届く。
雪のグラウンド。
その真ん中に書かれた文字。
『待ってる。』
思わず涙があふれる。
「もう少し。」
チョコの箱を胸に抱きしめる。
「もう少しだけ待っていて。」
その頃、病室では陽子が静かに目を覚ました。
「美咲。」
「なに?」
「春になったら……。」
優しく微笑む。
「ちゃんと、好きな人に会いなさい。」
美咲は驚いた。
「なんで分かったの?」
「母親だから。」
二人は顔を見合わせて笑う。
久しぶりに病室へ、明るい笑い声が響いた。
二月の終わり。
青葉高校では卒業式の準備が始まっていた。
三年生を送り出す季節。
そして、新しい春が少しずつ近づいてくる。
その春には、悠真と美咲が交わした約束の日も待っている。
しかし、その約束を前に、悠真のもとへ一本の電話がかかってくる。
病院からだった。
電話口の相手は、美咲ではない。
担当医の落ち着いた声が告げた。
「高橋さん。できるだけ早く東京へ来ていただけませんか。」
悠真の手からスマートフォンが滑り落ちそうになる。
胸の鼓動が速くなる。
春は、もうすぐそこまで来ている。
それなのに、運命は再び二人へ大きな試練を与えようとしていた。

電話が切れたあとも、悠真はしばらく動けなかった。
夕暮れの部室。
窓の外では、野球部員たちがグラウンド整備をしている。
その光景が、まるで遠い世界の出来事のように感じられた。
「どうした?」
健太が駆け寄る。
悠真は震える声で答えた。
「病院からだ……。」
「朝倉さんのお母さんのことで、東京へ来てほしいって。」
健太の表情が変わる。
「行け。」
「でも練習が……。」
「そんなこと言ってる場合じゃない。」
力強い声だった。
「チームは俺たちが守る。」
その言葉に、蓮も静かにうなずく。
「行ってこい。」
「後悔するな。」
二人の言葉に背中を押され、悠真は深く頭を下げた。
翌朝。
始発の新幹線。
窓の外を流れる景色を見つめながら、悠真はあの日の約束を思い出していた。
『春になったら、もう一度会おう。』
もう春はすぐそこまで来ている。
どうか間に合ってほしい。
その願いだけを胸に、東京へ向かった。
病院のロビー。
エレベーターの扉が開くと、美咲が立っていた。
少し痩せたように見えた。
目の下には薄く疲れの色が浮かんでいる。
それでも悠真を見ると、安心したように微笑んだ。
「来てくれたんだ。」
「もちろん。」
その一言だけで、美咲の目に涙が浮かぶ。
「ありがとう。」
病室では、陽子が穏やかな表情で横になっていた。
「高橋くん。」
「はい。」
「来てくれてありがとう。」
「お加減は……。」
陽子は静かに首を横に振った。
「もう、自分の身体のことは分かるの。」
病室が静まり返る。
「だからお願いがあるの。」
陽子は二人を見つめた。
「美咲を……。」
少し息を整える。
「これからも、笑顔にしてあげて。」
悠真はまっすぐうなずいた。
「約束します。」
その返事を聞いた陽子は、安心したように目を細めた。
「ありがとう。」
病室を出ると、夕日が廊下をオレンジ色に染めていた。
美咲は窓際で立ち止まる。
「ごめんね。」
「何が?」
「こんなことで呼んじゃって。」
悠真は静かに首を振る。
「来たかった。」
「え?」
「君がつらいとき、一人にしたくなかった。」
その言葉に、美咲は涙をこぼした。
「私……。」
声が震える。
「ずっと怖かった。」
「うん。」
「お母さんを失うかもしれないことも。」
「君と離れることも。」
悠真はゆっくりと彼女の手を握った。
「もう一人じゃない。」
そのぬくもりに、美咲は静かに目を閉じた。
翌日。
病院の中庭では、梅の花が咲き始めていた。
春は確実に近づいている。
ベンチに並んで座る二人。
「約束、覚えてる?」
美咲が尋ねる。
「もちろん。」
「春になったら返事をするって。」
悠真は少し笑う。
「急がなくていい。」
「待つって決めたから。」
美咲はポケットから小さな箱を取り出した。
「これ。」
開けると、少し形の崩れた手作りチョコレートが入っていた。
「本当はバレンタインに渡したかったの。」
悠真は一つ口に入れる。
「甘い。」
「おいしい?」
「世界一。」
美咲は照れながら笑った。
その笑顔は、出会った春の日と同じくらい輝いていた。
東京から帰る日。
駅のホーム。
「またね。」
「また。」
短い言葉。
それでも十分だった。
列車が動き出す。
悠真は窓越しに大きく手を振る。
美咲も涙を浮かべながら笑顔で振り返した。
春は、もうすぐそこまで来ている。
そして桜が咲く頃。
二人は、もう一度同じ場所で向き合うことになる。
その日こそ、本当の答えを伝えるために。

