無音
起きてからも覚えている夢なんて、久しぶりだ。
海の見えるどこかの宿で、わたしは油絵を描いている。二枚の布団に絵の具をこぼしてしまい、洗濯だと騒ぐ。駆けつけた仲居さんから、毒々しいほど人工的な桃の香りがする洗剤を借りた。爛熟してもなお、摘み取られることのなかった果実を煮詰めたような甘ったるい匂いがした。
それに手を伸ばした瞬間、指先が蛍光ピンクの液体に染まる。ぎゃっと声を上げたところで、目が覚めた。
無色の光。物音ひとつしない部屋。わたしの呼吸音だけが、あとからくる。
もう、きっと会えない叔母がいた。
幼いころ、わたしを甘やかしてくれたのは、遠く離れた地に住む叔母だけだった。年がら年中苛立っている母とは違い、なにをしても底抜けに笑ってくれた。いつも香りを纏い、青みがかったピンクの口紅を引く。持ち前の茶目っ気で、飲み屋で居合わせた他人と十分後には笑い合っていた。
なにより、わたしを呼ぶときに、陽気に語尾が上がるのがすきだった。その声を聞くだけで、これから楽しいことが起こるという絶対的予感。
叔母は、子どもが知りうる限りの「いい女」そのものだった。
数年に一度、夏休みになると、母と兄と三人で沖縄へ帰省した。空港からタクシーに乗り、ネオンが揺れる那覇の繁華街を抜ける。湿り気を帯びた夜のなか、叔母の住むマンションへ辿り着く。
縦に細長い1DKの部屋に足を踏み入れると、冷房の風が芳烈な香りを纏わせる。匂いの発生源は、子どもの背丈ほどある金縁の猫足がついたガラス製キャビネットだ。背面の鏡が、女たちの腰つきを思わせる数百の香水瓶を艶かしく乱反射させている。母がつけていたニナリッチのレールデュタンも、もとは叔母からのお下がりだ。
叔母の部屋には、巨大な鏡が乗ったドレッサーとベッドと、そのキャビネットしかない。シーズンアウトした化粧品のサンプルが乱雑に積まれ、どれも正しい蓋がなく、口紅の切り口もまちまちだ。ほの暗い部屋は、生活の場所というより、美の掃き溜めであった。
デパートに連れて行くためだけに、叔母はわたしに服を買い与えた。ベージュの格子柄のワンピースは、胸元にピーターパンのような編み上げがついていた。ごわごわした硬い生地で、着心地は決して良くなかったけれど、それが「よそ行き」であることは子ども心にわかった。
「わたしの姉の子どもなの」
「あら、いいわね」
叔母の同僚たちが声をかける。
スカートを履き慣れていないわたしは、パンツが見えないようにお行儀良く足を閉じなくてはならないし、腿と腿が擦れる居心地の悪さに、胸元の革紐をずっといじいじしていた。
一時期、叔母はパリのシャネル本店で働いていた。
休みの日さえあればルーブル美術館へ足を運んだという。
日本から持っていったテレサ・テンの『つぐない』を流すと、現地の人が立ち止まり、飛ぶように売れたことを、得意げに話した。
大理石の床に響く叔母のヒール音と、異邦人の歌声。それは、ここではないどこかへ誘う「呪文」だ。叔母が売っていたのは香水ではなく、瓶に閉じ込められた「理想郷の霞」だったのだ。
ちょうど叔母が帰国したとき、わたしが生まれた。叔母はわたしを我が子のように思えたらしく、「養子にくれ」と何度も母に頼んだという。わたしもわたしで、でろでろに甘やかしてくれる叔母が泊まりにくるたびに、「帰らないで」と泣き叫んだ。結局、叔母は二度も帰りの飛行機を延期する羽目になったらしい。
叔母は、誕生日やクリスマスには、わたしにはセーラームーンの人形、兄にはゲームボーイなど、その年に流行っているものを必ず贈ってくれた。だが、母は頑なにそれらを開けさせてはくれなかった。クリスマスの朝、包装紙だけ破かせておいて、叔母にお礼の電話だけさせ、すぐさま取り上げる。かといって、誰かにあげてしまうわけでもない。なぜか、寝室に鎮座するガラス張りの日本人形の横に置かれた。焦点の合わない人形が増えていく。
「みんなが持ってるんだから、遊ばせてあげたらいいじゃない。仲間外れにされちゃうよ」
そう叔母が嗜めても、お構いなし。母にとって「みんなが持っているもの」は害悪なのだ。母の理不尽な拒絶が、冴える。
一方で、叔母と母は仲の良い姉妹だった。週に一度は夜中に長電話をする。こういうときだけ母は沖縄の方言を巧みに操り、子どもや夫に聞かれてはいけない秘密の話に花を咲かせる。
いつの間にか、叔母はわたしを欲しがらなくなっていた。
母が癌で入院したとき、叔母は何ヶ月も仕事を休み、見舞いにきた。
華やかな笑い声は消え、病室には重苦しい沈黙が流れた。叔母なりにどうにかして甥と姪を励ましたかったんだろう。「マイケルの映画(THIS IS IT)いいよ」と言った。帰りに、TSUTAYAでマイケル・ジャクソンのアルバムを借りた。
母が死ぬと、叔母はあの馨しさに満ちたマンションを引き払い、実家に戻った。帰宅する際、会社の同僚の弟からストーキングされているからと職場も変えた。
母の七回忌、祖父と母の弟妹たちが葬式以来、久しぶりに顔を揃えた。法事を終えた夜、叔母が切り出した。
「もう、これで最後。ここには来ないと思う」
叔母にとって、この地と彼女をつなぎとめていた唯一の存在は、姉だった。わたしではなかったのだ。
それからも、細々とささやかな贈り物のやりとりは続いていたが、あるとき、叔母から届くその中身が奇妙だった。
大好物の沖縄ホーメルのすとぅー缶が積まれた奥に、かつて叔母が母にあげたと思われる、黄ばんだカメリアのコサージュや、幼いころ、わたしが祖父母の家に置き忘れたであろう、あのワンピースの革紐が入っている。束ねられてもおらず、ただ無造作に。
家の片付けでもしているのか、それともわたしが叔母に嫌な思いをさせたのか。なぜか聞けないまま、不気味な違和感に蓋をした。
「もう、おじいが郵便局へ行くのも大変だから、送らないでおこうね」と言われ、連絡が途絶えてから数年、ふと思い立ってかけた叔母への電話は「現在使われていません」という無機質なアナウンスに代わっていた。
胸騒ぎがして、祖父母の固定電話にかける。耳の遠い祖父母はなかなか電話を取らない。ようやくつながった叔母の声に安堵する。あまり出かける機会もなくなったから、携帯電話を手放したのだという。
お歳暮に、久しぶりに父が祖父母に果物を送りたいというので、小包を送った。しかし、二週間経っても受け取りの連絡がない。いよいよわたしの電話が震えたのは、二年前の正月。叔父からだった。
「柿ありがとう。あと今、おばちゃんね、精神病院に入院してて、連絡できないの。だからもうなにも送らないで」
叔母は「家の外から人が覗いている。家に火をつけようとしている。助けて」と警察に二度、通報をしたらしい。
駆けつけた警察官が見たのは、すべての窓が新聞紙で覆われ、光を遮断し、家中が真っ暗になった異様な空間だった。
もうこのままでは近所に迷惑になるからと、弟たちが病院に連れていき、即入院になった。その後、症状は落ち着いているらしいが、叔母は面会拒絶をしていて、誰も会えていないのだという。ただ、下着の着替えを定期的に持っていく日々だと。
一度入ったら二度と辿り着けない場所。怖い思いをしない場所。
叔母は、自らの手で窓を塞ぎ、世界を真っ黒に塗り潰すことで、独りきりの「桃源郷」を完成させてしまったのだ。
薄い新聞紙をどれだけ重ねれば、沖縄の日差しを遮ることができるのか。かつて、あんなにも光を一身に集めた女が、独りきりで新聞紙をかき集めていたのか。
あの小包の隅っこに入れられたガラクタたちは、たった独りの桃源郷を創り上げるために、最後に捧げた木戸銭だったのか。
わたしは、怖くなった。頭に浮かぶ叔母の顔が、母に切り替わる。もし、まだ母が生きていたら。
「今日なんか学校であったでしょ」
飽きもせずに毎日、学校から帰宅したばかりのわたしを捕まえ、母は執拗に詰め寄る。
あれは問いかけではなかった。母はなにがなんでも、わたしが酷い目に遭ったと思い込まなければ気が済まなかったのだ。ありもしない不幸を掘り起こそうとする母の真剣な眼差し。わたしが泣いていなくても、母には見えていたのだ。
「なんもないってば。しつこいな。なんでそう思うの」
「急に、あ、今あなたが泣いてるって。こころがざわついたの」
母は、わたしのなかに自分と同じ絶望を見つけることで、自分が独りきりではないと実感したかったのだろうか。
わたしは、建て替える前の古い家が怖かった。ショベルカーでぐしゃんぐしゃんに解体してしまうまで、二階奥の畳の部屋には、前の住人が隠れているのではないか、死体があるのではないかと、ひそかに怯えていた。
母が見ていたのは、妹であり、鏡に映った自分自身であり、そしてその成れの果てとしての、わたしだった。今となっては、すべてがひとつの「物体」に思える。
夢のなかで、わたしが必死に洗い落としたかった汚れはなんだ。布団を汚した絵の具は何色だった?
わたしに、何ができたのだろう。
東京の街は、いつ行っても濁っている。雨が降っていたわけでもないのに、そこら中に薄汚れた水溜りが、雑草のように生えている。よそ行きの裾に跳ねないように、下ばかり向いて歩く。
行き交う人の気配にデパートの自動ドアが開く。一瞬、秩序のない高級ブランドの香水と化粧品の混ざった下品な匂いの霞がかかる。
思わず、顔を上げる。
人波のなかに、熟れすぎた果実の香りを纏った叔母を見る。大きなサングラス。ペンギンのように足先を開いて歩く、あの独特な歩調。
わたしを呼ぶ、陽気に語尾の上がるあの声。
叔母は、わたしを忘れたのか。無機質な部屋に、パリを染めたテレサ・テンは鳴り響いているか。そこは、ちゃんと桃源郷か。
母が最後まで探し求めていた、青みがかったピンクのマニキュア。
叔母の笑顔には、あの口紅の色。
左耳から、あのピンクがぼたっと垂れる。
ああ、もう飲み込まれたのか。
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