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ローマの松は、なぜキラキラなのか

深夜1時。
私はパソコンの前で、
松とは何かを考えていました。

原因は、AIです。
いや、クラシックです。

その日、私はコンサートで「ローマの松」
という曲を聴きました。

題名を見た時、私は思いました。
これはたぶん、渋いやつだと。

松です。
しかも、ローマの松です。
渋くないわけがありません。

私は勝手に、石畳とか、古代遺跡とか、
夕暮れとか、そういったものを
想像していました。

こう、茶色とか灰色とか、
歴史の重みみたいな音を予想していたのです。

ところが、始まってみると違いました。
なんだか、ディズニーファンタジー
みたいなのが始まったのです。

えっ、そっちなの。
私は心の中で、静かに座り直しました。

ローマの松と聞いていたのに、
出てきたのは、キラキラした何かでした。

もっとこう、無口で、堂々としていて、
遠くを見ている感じを想像していたのに、
音はずっと、夢と光の世界でした。

しかも途中で、小鳥まで出てきました。
どこからか、さえずりみたいな音がしたのです。

私は松を聴きに来たはずでした。
なのに、途中から、森なのか祝祭なのか、
ファンタジーなのか、
よくわからなくなってきました。

しかも、その小鳥みたいな音が、気になる。
あれは何なのか。

イタリアでは松と鳥がセットなのか。
そして何より、なぜ私は松に対して、
ここまで渋さを求めているのか。

気づけば私は、曲を聴きながら、
頭の中で別の議論を始めていました。

ローマの人たちにとって松とは何か。
イタリアの松は、日本の松と違うのか。
日本人は、なぜ松を見ると急に
めでたさを感じるのか。

演奏は進んでいるのに、私の頭の中だけが、
どんどん松の国際比較へ向かっていったのです。

そこまで来ると、私はもう聴衆ではありません。
比較松文化論の研究者です。

帰宅後、私はAIに聞きました。
「ローマの松って、なんであんなに
クリスマスツリーみたいなの?」

AIは、たぶん少し困ったと思います。
でも、そこはAIです。
困っても、だいたいそれっぽく答えます。

「未桜さん。
《ローマの松》は、レスピーギが
ローマのさまざまな場所にある松を
題材に描いた交響詩です。
日本の松のイメージよりも、
ローマの風景や光、空気感、情景描写の要素が
強く反映されていると考えられます」

光。
空気感。
情景描写。

私はさらに聞きました。

「でも、日本の松ってもっと渋くない?」

AIは答えました。

「日本では松は、長寿や吉祥の象徴として、
お正月の門松や能・日本庭園などの
静かな美意識と結びつきやすい一方、
地中海圏の松は明るい空や広がる景観とともに
印象づけられることがあります」

私はそこで、軽い衝撃を受けました。
日本の松は、寡黙でした。
でもローマの松は、陽気に空の下で
広がっていたのです。

同じ松なのに、国が違うと、
こんなに違うのか。

私はさらに聞きました。

「あの小鳥みたいな楽器は何?」

AIは答えました。

「《ローマの松》第3部では、
ナイチンゲールの声が使われることで
知られています。
楽器ではなく、録音された鳥の声です。」

録音。

私はてっきり、どこかの奏者が
人生を鳥に捧げてきたのかと
思っていました。

「じゃあ、イタリアでは、松と鳥が
セットなわけ?」

AIはあっさり答えました。
「いいえ。
ここはジャニコロの丘の月夜を描いた
場面なので、松と鳥が一般論として
セットというより、この場面の情景として
結びついています」

イタリア人がみんな松を見ると
鳥を呼ぶわけではなかった。
ただ、ローマのある丘の、月の光の下では、
松のそばに鳥がいただけでした。 

そこまで来ると、私はもう曲を聴いた人では
ありません。
松の解釈に失敗し、鳥の解釈に失敗し、
さらに鳥の参加形態に驚いている人です。

でも、その瞬間。
私はまた一つ、
精神的無敵の人になりました。

私はクラシックを聴いて
感動するだけでは飽き足らず、
AIに、松の国民性と鳥との関連性と
鳥の出演方式についての
解明を依頼した人間です。

無敵だ。
最強だ。

私は松と聞くと、勝手に渋くて、
縁起がよくて、落ち着いたものを
想像します。

でもローマの松は、もっと明るくて、
開放的で、光の中でときどき鳥まで呼びます。

問題は、曲ではありませんでした。
私の中の松の狭さです。
私の松は、必要以上に正月でした。


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