ぬり絵が一冊売れたので、紅白幕を出して待っていた
深夜1時。
私はパソコンの前で、
紅白幕について
考えていました。
原因は、AIです。
いや。
正確には、ぬり絵本です。
私は、海外向けのぬり絵本を
2冊作りました。
1冊目は、雨上がりの
日本を巨大な三毛猫が
歩く本。
2冊目は、ペンギンが
メロンソーダの中を泳ぎ、
オムライスの山を登り、
どら焼きで空を飛ぶ本です。
私はまだ1冊も売れて
いないうちから、
ぬり絵長者を
名乗っていました。
心の中では、背中に金色の
「塗」と書かれた法被まで
羽織っています。
しかし、現実の販売画面に
並んでいる数字は、
ゼロでした。
私が作る。
私が校正刷りを買う。
私が眺める。
私が正本を買う。
私が眺める。
ぬり絵村の経済は、
私一人で回っていました。
一人経済圏です。
まあ、仕方がない。
初めて作った本です。
世界のどこかで、たまたま
誰かが見つけてくれたら、
それだけで十分だと
思っていました。
そんなある日。
ぬり絵本の記事のコメント欄に、
「1冊購入しました」
と書いてくださった方が
いました。
私は、その文を3回
読みました。
1冊購入しました。
本当に?
私が作ったぬり絵本を、
自分のお金を出して
買ってくださった。
ぬり絵長者になる予定では
いましたが、誰かが本当に
買ってくださる場面までは、
あまり具体的に想像して
いませんでした。
私は、すぐに販売画面を
開きました。
ゼロ。
売れていません。
ご本人の証言と、ぬり絵村の
帳簿が食い違っています。
私はAIに聞きました。
「1冊買ってくださった方が
いるのに、販売画面には
何も出てこない」
AIは答えました。
「未桜さん、販売データが
反映されるまで、数日かかる
場合があります」
私は待つことにしました。
ただ待つのも落ち着かないので、
初売上記念式典の準備を
始めました。
ぬり絵村役場の玄関に、
紅白幕。
中央には、くす玉。
入口には、
「祝 初売上 1冊」
と書かれた立て看板。
巨大な三毛猫も、
ペンギンも、
何を祝っているのか
よくわからないまま、
会場に並んでいます。
村長は私です。
私は毎日、販売画面を
開きました。
ゼロ。
翌日も、ゼロ。
その翌日も、ゼロ。
紅白幕だけが先に出ています。
くす玉も、割られる様子が
ありません。
販売画面を開くたび、私は、
まだ誰も来ていない式典会場で、
司会者だけがマイクを
握っているような気持ちに
なりました。
そして、昨夜。
深夜1時。
私は、いつものように
販売画面を開きました。
数字が出ていました。
3冊。
私は画面を見ました。
もう一度見ました。
1冊ではありません。
3冊です。
内訳は、
猫、1冊。
ペンギン、2冊。
1冊売れたと教えて
いただいたので、
私は1冊分の式典しか
用意していませんでした。
ところが、帳簿には3冊と
書かれています。
別の方も買ってくださった。
うれしい。
1冊でも十分うれしかったのに、
3冊です。
しかも、陰気と言われた巨大な
三毛猫も、かわいいと言われた
ペンギンも、どちらも旅立って
行きました。
私は立ち上がり、
冷蔵庫を開けました。
父の日の獺祭を買ったとき、
実は、自分用の
スパークリング獺祭も
1本買ってありました。
いつ開けるかは、
決めていませんでした。
しかし、今です。
もちろん、3冊で長者には
なれません。
法被の背中にある金色の
「塗」も、まだ随分と
気が早い。
しかし、夜な夜な
私が作ったものを、
誰かが自分のところへ
迎えてくれた。
その事実は、売上の数字よりも、
ずっと大きく見えました。
でも、その瞬間。
私はまた一つ、
精神的無敵の人になりました。
一人経済圏だと思っていた
ぬり絵村には、私の知らない
ところへ続く道が、すでに
3本できていました。
無敵だ。
最強だ。
私は、初売上記念式典の
立て看板に近づきました。
「祝 初売上 1冊」
の「1」を消します。
そして、
「祝 猫1冊・ペンギン2冊」
と書き直しました。
紅白幕は、そのままです。
満を持して、くす玉を割りました。
そして、スパークリング獺祭を
開けました。
ぬり絵長者には
まだなっていません。
しかし、この日の私は、
長者よりも、
ずっと幸せな人間でした。
